2010/07/15
アメリカ
ロバート・フランクの捉えたアメリカ。
アメリカ人は個性もなく、
死に瀕して無気力なアメリカでありアメリカ人なのだ。
ロバート・フランクのアメリカでの2年間の写真は笑いのない、
花のない、
草も木もない、
機会のように置かれた無神経の人間の顔。
あるいは彼らの乗り物のハンドルの堅さ。
彼らの贅沢な超高級車のたいくつさ。
ロバート・フランクのアメリカはこの世の危機ならぬゆえに、
人々を驚かすことが可能だった。
そんな顔をしたロボットのようなアメリカ人。
そんなアメリカ人を考えたことがなかっただけに、
充分驚かされたことは確かだ。
人間の生きているところ何処かにロマンスがあり、
花も咲き。
青空もあるのだが当たり前なのだが「アメリカ」という写真集にはそれがない。
時代はビートニクたちが、
彼らの変革の武器である詩をたずさえて登場するのと同じ時代。
ギンズバーグの「吠える」や、
ケルアックの「オン・ザ・ロード」が一粒の種として蒔かれ。
アメリカとアメリカ人に多くの種々の種が蒔かれた時期である。
ノーマン・メイラーが冷静にかつヒステリックに人間の危機を訴えてたのもこの時期である。
ロバート・フランクというスイス人の目に写ったアメリカは、
まさに死に瀕していた無気力なアメリカであったのだ。
肉体的ですらあるロック・サウンドが悩みそこにはびこりついていた一切の規制概念のアメリカを吹っ飛ばし。
取り去った瞬間に新しく知覚の扉が開かれ。
その体験を経たものにしかわからない一種の臭覚を若者たちにもたらしたに違いない。
ロックを通して感じた連帯感は同時にファッションを通して感じ取ったアメリカが生まれたに違いない。
現代の東京という大都市を持つ日本にも、
学校を出たとたんにどうしようもない体制というものにベッタリの人たちが私のまわりにはたくさんいる、
そんな人にかぎって論理や思想の矛盾性を欠くものだから、
私のような水の流れ的生き方を非難するものがいるのだろう。
ビートニクがヒッピーが。
イッピーはアメリカであるが、
今日的にいえば地球的な問題が捉えていることであるかのような気がする。
だからこそ、ビート・パンクス。
再び意識を変えて20世紀までの世界よりも争いのない。
人間同士が助け合い。
幸せというものの中に心を浸して生きていく時代がやって来たのだと思う。
ロック世代がそうだったように!
ファッションがロックに飾り出されたように、
心の中の自由自在のファッション。
精神的な意味を持ったものがビートニクの精神の中には確かにある。
ファッションとは世界をかけめぐり動的なエネルギーで、
あっという間に人間の意識の中に入り込んでしまうもの。
新しい意識の扉を開けるのは、
ロックとファッションの2つである。
あくなき自己の内部へのトリップ、
つまり探究によってその契機をつかむこと。
いうまでもなくドラッグと呼ばれるLSDやマリファナというトリップ。
あるいは宗教的な修行によって可能であろうし。
よりよい世界に、
そして美しい地球をキープするためには必要なものなのだ。
外的なものとしてファッションに身をゆだね新しい意識の扉を開き、
真の知覚を得る道である。
ファッションの場合流行のパターンに落ち入ることなく、
常に創造的であることが必要だ。
ファッションの秘めている力は既成のもの、
あるいは概観的なものに挑戦する激しい志向を持っている場合フレッシュである。
1960年代では芸術といわれるものの各領域、
たとえば文学、演劇、映画、音楽、絵画。
そしてファッションというそれぞれの個別な価値を持っていた。世界に新しいものが内と外から垣根を取っ払うように勢い良く飛び越えて殴り込みを掛けた年代であると言えよう。
いつの時代もそうであるが歴史が物語っているように、
地球規模で文化の状況が明確になりかけている。
ニュー・カルチャーを新しいカタチとして認めるか、
それとも逆にそれを退廃的であるとして価値のないものとして退けるかなのだ。
新しい価値をロマンチック・リバイバルと考えてもいい。
ビートハグは新しい詩人たち、
新しい言葉として価値を認めさせた。
御供 2003/8/12
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