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2011/02/18

アップル



1955年2月24日、

スティーブン・ポール・ジョブズは生まれました。彼はポール・ジョブズとその妻クララの養子と なり、サンフランシスコの45th Avenueに住むこととなりました。彼の父は「立派な行い」で知られる人物で、債権回収の仕事に就く前は沿岸警備隊のエンジン室の機関士でした。彼は自 動車の改造もして収入を得ていました。

スティーブは非常に活発な子供でした。子供の頃、彼はアリ退治用の薬品を飲んでしまい、病院にかつぎこまれたこ ともあります。養子になったことについては、彼は後年次のように言っています。「私の性格や特徴がどこからきたものだろうか? とみなさんが興味を抱くの はごく自然なことです」と。「でも全般に、私は環境による影響を重視しています。どう育ったかとか、価値観、だいたいの世界観というのは、自分の成長して きた過程で生まれてくるものだと思います。」


1963年

スティーブはうっすらと自信をにじませつつ、小学校低学年時代の自分についてこう振り返っています。「小学校3年生のときの私たちを見てほしかったな。」「先生なんてこてんぱんだった。」


1965年

10歳にして、スティーブのエレクトロニクスへの興味は両親の目にも明らかになりつつありました。彼はヘアピンを壁の電気ソケットに突っ込んで感電してしまったこともあります。父ポールは債権回収の仕事の規模を広げるため、家族を連れてパロアルトに引越しました。そこはシリコンバレーとして知られる、成長著しいエリアでした。

シリコンバレーで少年期を迎えることとなったスティーブは、その後どのように成長していったのでしょうか? 続きます!


Brian Lam(原文/miho)




1970~1971年(其の一)

ティーンエイジャーに突入したジョブズ君、もうすっかりグレまくりの青春時代を送ります。酒とロックとマリファナに溺れる日々...

すみません。ウソです。いくらなんでも、いきなりそこまで壊れてはいませんでした。上の画像も米GIZMODO編集チームによる悪いアメリカンジョークでございます。




1970~1971年(其の二)

気を取り直しまして、われらがジョブズの少年時代を振り返ってみることにいたしましょう。そう、決して忘れてはならない、あの後に一緒にアップルを創業するスティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズ、2人の偉大なるスティーブの運命的な出会いがあったのは、この学生時代のことだったんですよね!

どうやら最初の出会いは、ジョブズの親友が「あのさ、とってもいい奴がいるんだよ」って紹介して引き合わせてくれたことに始まるみたいです。でも、もう出会った瞬間から、まるで幼い頃からの親しい友人のごとく、一気に何をするにも意気投合する強力な絆で結ばれちゃったそうですよ。ボブ・ディラン、ビートルズ、そしていわゆるガジェットの電子機器という共通の趣味が見事にマッチした2人は、この年頃の少年たちらしく、かなりヤバいイタズラにも興じていました。まぁ、それなりに不良だったってことでしょうかね...

そんな若かりし出会った頃の2人ですが、すでに互いに心から尊敬し合えるものがあったみたいですよ。

ボクは電子機器をいじりまくるのが大好きで、その知識はだれにも負けないものを持っているって自負していたんですけど、ウォズは初めて自分よりも詳しい物知りでしたね。彼のエレクトロニクスについての知識は尋常じゃなかったですから...
ウォズとの出会いを振り返りながら、こんなふうにジョブズは評していますよ。

ボクはそんなに人付き合いが上手ではないんだけど、その点、ジョブズはスゴいよね。仲間を信頼するとか、相手の奥の奥を見抜く能力に長けているっていうのかな、そんな不思議な魅力を持っているんだよ。
一方、ウォズはジョブズを、最初に出会った時からこう語っては一目置いてたんだとか。う~ん、なんとも言えないオーラを放ってアップルの快進撃を率いてきたジョブズのマジックとも呼ぶべき人柄の片鱗が、すでにこの時から顕著だったことがうかがい知れる貴重なエピソードでもありますよね!




1970~1971年(其の三)

ちなみにやっぱりウォズとジョブズは、かなりの悪ダチだったことを示すエピソードもご紹介しておきましょう。男性誌の「Esquire」で公衆電話のイタズラ記事を読んだ2人は、なんとその天才的にマニアックな知識を駆使して、勝手に公衆電話につないでコードをクラックし、無料で長距離通話だってかけまくれるというヤバすぎるキット「Blue Box」なる代物を完成させちゃいましたよ。

ただ、自分たちで作り上げて悪用するにとどまらず、ここにも後のジョブズのアップルでの成功を垣間見させる展開といたしまして、まだ高校生だったにもかかわらず、いきなりキャンパスの片隅に出かけては怪しげなブースを設け、学生たちを相手にヤバヤバな違法キットのBlue Boxを売りさばき始めます! ちなみに販売価格は当時の150ドルと、決して安い値段ではありませんでしたよ。1台のBlue Boxを組み上げるために要したパーツ代などの原価コストは40ドルだったそうで、これはもううまくいけば荒稼ぎですよね~

幸か不幸か、ある時、ウォズとジョブズは乗っていた自動車が故障してしまって、もうウンともスンとも言わず、道路の脇で立ち往生してしまいました。 そして、このBlue Boxで目論んだイタズラ商売にも終止符が打たれることになりますよ。というのも、例によって無料通話をかけて救援を仰ごうと公衆電話に駆け寄ってBlue Boxをつなぎおおせたところで、なななんと真横にパトカーがやって来ちゃったんですよね。

警察:これは君たちの車かい?

ジョブズ:あっ、はい、そうなんです。突然故障して動かなくなってしまいまして...

警察:で、いまは何をしているところだね?

ウォズ:あっ、はい、困ってしまったので電話を...(慌てたジョブズに口を押さえられる)

ジョブズ:あっ、いえ、その、ちょっと気分を盛り上げるために音楽でもと思いましてですねぇ。

一体こいつらは公衆電話に群がって何をしているんだと不審に思って近づいてきた警察官にBlue Boxを見咎められて危機一髪の2人でしたが、そこはジョブズが機転を利かせて、これは別に怪しい機械でもなんでもなくて、音楽プレイヤーみたいなものだって言ってのけては、なんとかその場をしのいだんだそうです。う~ん、なかなかこの2人は十代の頃から凄まじいコンビを組んでいたってことですなぁ。




1972年

高校を卒業したジョブズは、晴れてオレゴン州のリード大学へと進学し、花のカレッジライフをスタートするのですが、このキャンパス生活はそんなに長くは続きませんでしたよ。わずか1学期で単位を落としまくって、いわゆる留年状態になってしまったのです...

そもそも最初からジョブズは大学に進学することに興味などまったくなかったのですが、自分の生みの親があまりにも熱心に勧めるため、仕方なく進学を決意したそうですね。ただ、どうやら大学側がジョブズの偉大な才能という殻を受け入れるには小さすぎたのかもしれません。

ところで、この頃、ウォズとジョブズは一緒に生活費を稼ぐため、なんとショッピングモールの中で不思議の国のアリスの衣装をかぶっては時給3ドルでアルバイトに励んでいたなんてトンでも情報がありますよ。もしやジョブズの魅せるドラマティックな演出は、こうやって着ぐるみの中で体得したんでしょうかね?




1973年

ちなみに単位を落としてしまって進級できなかったジョブズですが、1年半ほどはキャンパスに出入りしつつ、とりわけカリグラフィーのクラスに熱心に出席しては書道とタイポグラフィーへの理解を深めたと伝えられていますよ。そして、知る人ぞ知る、これこそがあの美しいMacのフォントデザインに後に活かされることになっていくんですよね!




1974年

さて、すっかりカレッジライフには見切りをつけたジョブズは、カリフォルニアへと舞い戻って、これまた突然のこととして、ゲーム業界の雄であったAtariへの就職を願い出ますよ。逸話では、まともに事前のアポイントなんてあったもんじゃなく、いきなりAtariの本社にフラッと現われたかと思うと、開口一番に「俺には才能がある。だから雇ってくれ。首を縦に振ってくれるまでは帰らない」とその場に居座り、速攻で採用内定をゲットしただなんて伝えられていますね。結構もうこの若い頃からワンマンなタイプだったのかも~

ただ、就職後には知人のダンさんと連れ立って、何を思い立ったのか、スピリチュアルな旅に出たいと語りつつ、インドを目指してしまいましたよ。ある山の上で修行僧のグルに気に入られたジョブズは、ついに頭を丸めて坊主になり、これまた一緒にインドに旅した知人のダンさんも坊主頭になってしまいますよ。まぁ、ダンさんが髪の毛を剃り落とした本当の理由は、ノミでいっぱいの不潔さに耐え切れなくなったからなんだそうですけどね。

このインド放浪の旅は人生観をさらに大きく変えるものとなり、荒修行の最中にはLSDなどの麻薬にも手を出すほどの厳しい経験だったとジョブズ自身が告白しているみたいです。いやいや、このままインドで一生を終えることになっていたとしても不思議ではなかったのかもしれませんよね...

ただ、数か月に及んだ修行生活の途中で、これまたいきなり思い立ったジョブズはカリフォルニアへと帰国し、Atariに坊主頭で出勤してきては皆を驚かせていますよ。ところで、余談ですけど、ジョブズに付き合わされてインドまで連れて来られた知人のダンさんは、なんとインドを去ったジョブズに置いてけぼりを食らい、その後は独りでインドを放浪してさまよい続けたんたとか。なんだか俺流ジョブズもゴーイングマイウェイにやってくれますよね!

再びAtariに戻ってきたジョブズは、後に「Break-Out」というブロック崩しゲーム機として知られることになる特別な開発プロジェクトに着手するようにとの辞令を受けます。「このゲームマシンが、もしも40個未満のチップで完成したら、君には特別な報酬をやるよ」と約束されたジョブズは、親友のウォズに頼み込んで超コンパクト設計に仕上げてもらいましたよ。社会人になっても、なかなか2人の絆は強かったみたいですね。

ただし、人のいいウォズとは対照的に、かなりジョブズにはずる賢い一面もあるみたいで、この時に特別なプロジェクトの成功報酬としてAtariから受け取ったボーナスを、手伝ってくれたウォズと半々で山分けしたかのように見せかけつつ、実はウォズには一部しか与えず、大半をジョブズがポッケにないないしちゃっていたなんてことも明かされていますよ。う~ん、でもちょっとこれには感心できませんかね...

後に10年が経過してから事実を知ることになったウォズのショックといえば、それはまた親友に裏切られたことを知って、その時の悲しみと衝撃は尋常ではなかったと の話もあるようですよ。きっともしウォズが、こんなジョブズの仕打ちをもっと早くに知り得ていれば、一緒に仲良くアップルを創業するなんてこともなかった のかもしれませんよね。まぁ、ただし、この件に関しては、いまだにジョブズは、そのようなことをした覚えはないって絶対に認めてないみたいですけどね~




1975年

いよいよ偉大なるアップルの歴史の幕開けが近づいてきましたよ。この頃、ウォズは簡単な回路基盤でテレビに出力するコンピューターの製作に成功し、Homebrew Computer Clubでデモンストレーションを実施しています。当時、まだジョブズはAtariでの勤務を続けており、一方のウォズはHewlett-Packard(HP)に勤務していましたよ。




1976年(其の一)

じゃじゃ~ん、ついにここに記念すべきアップルの誕生です! この年の4月1日に共同出資して正式に創業されま したよ。もっとも設立資金といたしましては、ウォズが所有していたHPの電卓コンピューターを一挙に65台の大人売りで520ドル、ジョブズが愛車に所有 していたレッドとホワイトのツートンカラーのフォルクスワーゲン製のバスを1500ドル(実際には売り渡した瞬間にエンジンが火を噴いたので半額しかもら えなかったらしい...もしや不良品を売りつけたの?)で売り払って出し合ってスタートした、いまとなっては非常に小さな小さな始まりでしかありませんでしたけどね。

アップルが最初に売り出したのは、先日も超貴重なオークション販売が実施されたばかりの「Apple I」コンピューターでした。パーソナルコンピューターの輝かしい誕生ですね。当初の注文は50台でしたが、この年が終わるまでには150台が出荷されたと伝えられています。すべてジョブズの直筆サイン入りで、ジョブズ自らがセールスマンとして必死に売り歩いたというエピソードまで残されているみたいですね...




1976年(其の二)

一方、早くも次世代モデルの「Apple II」の開発にも着手したウォズとジョブズは、この新モデルは回路基盤からダイレクトにOSをロードし、まさにまたイチから大幅な設計変更を加えたモデルチェンジを実施することで意見の一致を見ました。そして、この頃に最初の出資者として、インテルの社員だったマイク・マークラさんからの資金援助を取り付けることに成功しましたよ。Apple Iの素晴らしい売れ行きとApple IIの将来性を固く信じたマークラさんは、この時すでに「絶対に5年以内にFortune 500のトップ企業に名を連ねる会社へとアップルを育ててみせたい」との大きな夢を語っています。その先見の明も見事な称賛に値しますよね!




1977年

年が変わって、1977年の1月3日にマークラさんの自宅に集まった3人は、アップル創業から1年を待たずして「Apple Computer」の法人化を実施する書類にサインし、ウォズ、ジョブズ、マークラさんの3人で株式を持ち合うことになりましたよ。

順風満帆のスタートを切ってきたアップルですけど、この年にジョブズにとっては早くも暗雲が垂れ込める変化も生じ始めています。それはNational Semiconductorからの引き抜きでアップルの社長に抜擢されたマイク・スコットさんの登場ですね。社長への就任直後から、ジョブズとスコット社長との折り合いの悪さは明らかになり始めますよ。

たとえば、スコット社長の人事プランですと、ナンバーワンの社員はウォズであり、あくまでもジョブズはナンバーツーに過ぎないと明確に示されてしまいました。でも、このランク付けにはジョブズは非常なる不快感を覚えたそうですね。おまけに長髪ルックの風貌がボサボサでガサツと冴えなかったジョブズに対して、なにかとスコット社長は外見上の嫌味を言い始めるんですよね~

少しずつ雲行きが怪しくなってしまっていましたが、この頃にジョブズはアップルのロゴマークの確立に腐心しています。いまとなっては懐かしいリンゴのロゴにレインボーカラーというアップルデザインですけど、小さくても一瞬で見分けがつき、なおかつたくさんのカラーを用いるロゴマークなので真似されにくいというメリットが重視されたそうですよ。

この年の4月にアメリカ西海岸で開催された「West Coast Computer Faire」におきまして、新作のApple IIは最優秀デザインのパーソナルコンピューターとして高評価を集めます。わずか62個のチップしか用いない最小構成デザインが、ジョブズのアイディアで配置にも美しさを追求し、すべてのネジが底部に埋め込まれて外からは見えない仕上がりが注目されたみたいですよ。拡張スロットまで標準装備されていましたからね。

この頃、ジョブズの人生面で大きな変化も生じています。それは付き合っていたガールフレンドのクリス・アンさんが妊娠したんですよね。ただ、ジョブズは父親として認知されるのを拒否し、一方のクリス・アンさんは絶対にこの子を堕ろすようなことはしないと主張して激しく言い争ったため、2人は別れることになってしまいました...




1978年

ジョブズはあくまでも父親にはならないと言い張ったそうですが、この年の5月17日にオレゴン州で娘のリサさんが誕生していますよ。依然として実子としての認知は頑なに拒んだジョブズでしたが、名前はジョブズがつけて、しかもApple IIの次なる新世代モデルの開発プロジェクトも「Lisa」と命名されます。同時に現在でもアップル本社があるカリフォルニア州クパチーノに会社を移転していますよ。

この年の社内ハロウィーン仮想パーティーではイエス・キリストに扮したというジョブズ。さらなるアップルの飛躍を担う「Apple III」の誕生を夢見ながら年を越していきますが、もしかするとこの時からすでにジョブズの受難の半生が始まっていたのかもしれません。いざ、ジョブズ半生記の特別編は第3部へと続いていきます。どうぞ乞うご期待!


Brian Lam(米版/湯木進悟)




さて、3回目はMatintosh誕生秘話や忍び寄るIBMの影の時期です。ジョブズ伝説の光と闇が世界規模で拡大する、非常にドラマチックな数年間でございます。

1979年

ジョブズは「Lisa」プロジェクトをスタートさせます。プロジェクト名の由来はまあ彼のまだ認知していない娘 からとったものなのでしょうが、社内では「Local Integrated Software Architecture(ローカルで統合されたソフトウェア・アーキテクチャ)」の頭文字とされており、ジョークで「Let's Invent Some Acronym(何の頭文字かを思いつこう)」の略だとかも言われていたとか。

Lisaはゼロックスのパロアルト研究所での研究からインスパイアされた、ウィンドウとマウスからなるグラフィカル・ユーザーインターフェースを持ったコンピューターを指向していました。伝え聞くところによると、同研究所でこのシステムを紹介されたジョブズは、興奮のあまり辺りを飛び回りながら「なぜ君たちはこれを製品化しないんだ!? こんな素晴らしい発明はない!  まさに革命だ!」と叫んだとか。ローリング・ストーンズ誌でも、ジョブズは当時を振り返って、こう述べています。「まともにモノを考えられる人間なら、全てのコンピューターがいつかこのように操作するようになる、ということに異は唱えないと思うね」。

また、ジョブズはこの年、Los Gatosに家を買いました。飾りつけなどはほとんどなく、極力シンプルで、マックスフィールド・パリッシュの絵画(予断ですが僕も画集持ってます)と、マットレスとクッションがいくつかがあるだけだったと伝えられています。

メルセデスのクーペのオーナーとしても知られる彼が、最初に同車を買ったのがこの年でもあります。この時は、同時にBMWのバイクも購入しています。

同年、彼は髪をこざっぱりと切り、ときおりスーツを着て、ちょっとビジネス界の風習にも従うようになります。

アップルとしては、この年、初のワープロソフト「AppleWriter」と、それに最適化された初のプリンター「Silenttype」をリリースしました。

ジョブズは実父確定検査を受け、94.97%の確率でLisaの父親であることが証明されました。しかし彼は認知を拒否し、母親のクリス・アンは生活保護生活を余儀なくされます。裁判所はこの年、ジョブズに養育費を払うよう命令を出しました。
(写真は1982年にDiana Walkerによって撮影されたもの。)









1980年

アップルが株式公開を果たし、ジョブズは初日で2億1700万円の財産を手にしました。

彼のインド旅行のパートナーでもあり、アップルの従業員ナンバー11番でもあるダンさんはストック・オプションを受け取っていません。噂によると、 ジョブズが彼にオプションを渡さなかったのは、彼がクリス・アンの悩みを聞いてあげていて、そのことに不信感を抱いていたからだと言われています。他の創 業メンバーも、ストック・オプションは受け取っていないか、受け取っていたとしてもごくわずかでした。一方、アップルの共同設立者であるスティーブ・ウォ ズニアックは、「ウォズプラン」と称して、彼の所有する株式の1/3を提供し、従業員に対して1人2000株まで買えるようにしていました。




1980年代

ジョブズはこんな口ひげを蓄えていたこともあります。1980年代のどこだったから特定できないのですが...
(私立探偵マグナムが初めて放映されたのが1980年の12月。参考までに。)




1981年

ジョブズは社長のマイク・スコットによって、Lisaプロジェクトから外されます。独断専行な振る舞いと彼の戦術の一貫性のなさが原因だと言われて います。また同年、スコットがCEO職を退き、アップルを去ります。株的にはともかく、仕事内容には不満があったようです。暫定的に創業メンバーのマーク ラが社長、ジョブズは会長となりました。

Lisaプロジェクトから離れたジョブズは、当時ジェフ・ラスキンが率いていたMacintoshプロジェクトに突如参画します。なお「Macintosh」は、McIntoshという品種のリンゴのタイプミスをもじった名前で、電源を入れればすぐに使える1000ドルのコンピューターというか電化製品として企画された製品です。

ジョブズ参画後、ラスキンとジョブズは対立するようになり、最終的にはラスキンはアップルを去ることになります。ジョブズはラスキンに、電話帳を机に叩きつけ、Macintoshをこの大きさ以上にするなと怒鳴ったというエピソードが残されています。

Apple IIと異なり、Macintoshは拡張スロットを持たず、Burrell Smithという社員(元はエンジニアではなくサービス部門のスタッフ)が素晴らしい創造性を発揮して、Macintoshの美しい基盤の大部分を開発しました。

またMacintoshは、別の意味でも注目に値するプロジェクトでもあります。当時アップルではプロジェクト名に自分と関係する女性の名前をつけ るのが常でしたが、ラスキンによって、はじめてそれが破られたプロジェクトでもあるからです。なおMacintoshプロジェクトは当初は「Annie」 という女性名で呼ばれていたようです。

それに先駆け1979年、ジョブズはラスキンに、コストを度外視して製品のスペックを考えてみるようにと言っており、彼は冗談のつもりで、思いつく 限りの常軌を逸した機能のリストをまとめたとのことです。そのとき書かれた機能のリストは、数年後に多くのコンピューターに影響を与え、または実装される ことになります。ジョブズ式のやり方の有効性を示すエピソードです。

Mactintoshチームは「現実歪曲空間」だったと、当時のスタッフは振り返っています。例えばとあるエンジニアがジョブズにアイディアを語ると、彼はそのアイディアをくだらないと否定し、数週間後にわざとか無意識になのか、それをジョブズ自身のアイディアとして披露する、といった具合です。

ジョブズはMacintoshのデザインを、フォルクス・ワーゲンよりポルシェのようであれと説きました(当時彼はポルシェ928に載っていまし た)。彼はMacintoshのプロトタイプのデザインを評する際、まるで車のそれを評するかのように「角ばりすぎている。もっとカーヴィに、この2面の 交差角はもっと大きく。このベゼルの大きさはあまり好きじゃないな」などなどと語ったといいます。




1981年その2

ジョブズはビル・ゲイツにMacintoshのデモを見せ、ゲイツはMacintosh用のソフトウェアを開発 することを約束します。ゲイツとジョブズはコンピューターについての未来の見解が異なっていました。ゲイツはコンピューターをビジネス用のツールとしてみ ており、一方ジョブズは普通の人々に利便性を与えるものと見ていました。2人を主人公にしたドラマ『Pirates of Silicon Valley』では、ゲイツはこのMacintoshのデモを見てWindows開発を決意したということになっています。
アップルのエンジニアは、ゲイツにLisaを見せることを長く拒んでいたし、このデモのときも、何を見せるかについては非常にセンシティブになっていまし た。Macintoshプロジェクトの主要メンバーの1人であり、このデモのときのプレゼンターでもあったアンディ・ハーツフェルドは、機能を紹介しよう としすぎた際、ジョブズに「Shut up!」と怒鳴られ下げさせられたと言われています。

さて一方、この年、Apple IIの成功から端を発したIBMの初代コンピューターが発表されます。アップルはこのリリースを、ウォール・ストリート・ジャーナルに「Welcome IBM, Seriously(ようこそIBM、いやほんとに)」という広告で迎え、また、ジョブズは「コンピューターの暗黒時代がこれから20年は続くだろう、IBMを市場から追い出してやるよ。こっちも準備はできてるんだ」とのコメントを出しました。結果は...みなさんご存知の通りです。


Brian Lam(米版/いちる)




1981年(其の三)

こちら、ジョブズがIBMに「こんにちは」してる写真。




1982年

ジョブズはビル・ゲイツとマイクロソフトに、アップルのため以外には、マウスを使用するソフトウェアに取り組まないと約束しましたが、実際のところ は、競合するオペレーティング・システムの開発が全く許されていないわけでは無かったので、ゲイツがWindowsを開発している頃、Macソフトウェア をマイクロソフトは開発中でした。 

この時、Macチームが使用していたビルは、午後5時30分にセキュリティーシステムが稼働するようになっていたんですけど、これって夕食後に仕事 に戻る傾向があったプログラマー達にとっては早すぎる時間でした。そんな日々が続いた結果、ジョブズは「誰かそのセキュリティーシステムを破壊してく れ!」 と叫んだそうです。 すると、アンディ・ハーツフェルドがアラームにドライバーを突っ込みアラームを破壊...。その後、警備員が現れましたが ジョブズは、ちゃんと破壊に対する全ての責任をとったそうです。 もちろん、大ごとにはならなかったんですけどね。

そんな風に仕事環境にイライラしつつ働いていたジョブズですが、この頃歌手のジョーン・バエズとデートしていました。ちなみに、バエズの元カレは ジョブズが大好きなボブ・ディラン。同じ人に魅力を感じる2人の感性は相性が良かっのかも!? そして、この年、ジョブズはニューヨークにセントラルパー クが見渡せるサン・レモアパートを購入し、建築家のI.M.ペイにリフォームさせます。でも、ジョブズがその部屋に入居することは無く、最終的には何十年 も経ってからU2のボノに売り渡したそうです。




1983年

Macintoshプロジェクトのキャプテンであるジョブズは、彼らの使っていた建物の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせました。

この年、タイム誌のマイケル・モーリッツ(Google委員会の一員だった投資家)が、ジョブズのダークサイドを人々に暴露しはじめました。彼は、 ウォズの「Apple IIの設計に、彼はたいして貢献していなかった」という主張や、匿名情報源からの中傷を沢山引用するような記事を書き続けました。 それを受け、ジョブズ は彼の新年のプランを中止し、記事について考えたそうです。バッシングされるのはヘコみますからね...。

その頃、ジョブズが嫌なやつだからこんな事するんだ! と人々から思われていたエピソードを一つご紹介しましょう。 人々はジョブズがオフィスにい るか? いないか?すぐに見分ける事ができたんです。なぜかというと、会社にいる時、ジョブズは青いメルセデスをビルの前にある身体の不自由な人用の駐車 場に駐車していたから。 そんなジョブズに対して、人々は、彼が嫌なやつだからんな事をするんだと思っていたそうです。でも、デビッド・ブネル曰く、不満 を抱いているLisaかApple IIの従業員が鍵で車に傷をつけるかもしれないから、それを回避するために、そこに駐車していたんだとか。いろんな理由があるかもしれませんが、こういう 行動とバッシング記事の相乗効果はすごいですから、気をつけないとですよね...。

ジョブズは「海軍にはいるより、海賊であれ」という精神で、Lisa・プロジェクトから多くのスタッフを引き抜き、技術を盗みました。 特にバレ ル・スミスがLisaと同じプロセッサMoto68000をMacに入れる方法をあみだした後からは激しくなったそうです。また、ジョブズは、Lisaプ ロジェクトのコンピューターとのコード互換性を拒否しました。 最終的に、Lisaの製品は何年も後にオリジナルのプロジェクト費の5倍になる1万ドルで 販売しましたが、IBMのマシンは3000ドルですから、競争に勝つことは難しいことでした。

その後、ジョブズは、ジョン・スカリーをペプシからヘッドハンティングし、アップルのCEOに就任させました。口説き文句は有名ですが、「このまま 一生砂糖水を売りつづけたい? それとも世界を変えたい?」でした。 ジョブズ以外の人達は、スカリーの科学技術の知識不足が難点だと考えていたふしもあったそうですが、ジョブズは、こ の事が彼を良きボスになるよう導く良いチャンスだと捕えていたそうです。 そして、ジョブズとスカリーは強力なパートナーシップでアップルの経営を押し進 めていきました。

一方、ゲイツはWindowsを公開し、1984年の終わりまでにIBMのマシンの90%以上がWindowsを走らせるようになるだろうと主張。








1984年

この年、ジョブズは広告代理店Chiat/Dayのクリエイティブ・ディレクタリー・クロウに出会います。そして、ジョブズはリドリー・スコットが監督した有名なくスーパーボウルの伝説のCM「1984」を世に送り出しました。

当時、ジョブズらはそのCMが気に入っていなかったうえに、スーパーボウル放送中の広告スペースは、あまりにコストがかかりすぎるので、そのCM枠 を売り戻ししようとしましたが、売れませんでした。 そしてCMを流すことに。 そのCMは、オーウェルの小説みたいな反理想郷の世界をIBMが運営して いることをほのめかし、新しく来るMacがその世界を打ち砕くといったかんじのものでした。 結果的に、スーパーボウルの放送中にこのCMが流れると、何 これ?と人々の関心を集め、賞まで受賞しました。 この事についてジョブズは、「運は自然力です。」と語ったそうです。

そして1月24日、ついに初代Macが発売されました! ジョブズは水玉模様の蝶ネクタイをし、ボブディランのThe Times They Are A-Changinの歌詞を暗唱してからMacをお披露目しました後、ジョブズは音声合成プログラムを使って、「こんにちは。私はマッキントッシュです」 と挨拶し、最後には、「私の父親同然の男性を紹介することを誇りに思います。スティーブ・ジョブズ」という言葉で締めくくりました。

ただ、Apple IIの後継機種となるべくApple IIIは、Apple IIとの互換性はまったくなく、サード・パーティのソフトもほとんど無かったので、Apple IIIの活性化に全力を注いではみたものの、思うような実績が残すことが出来なかったので、廃止となりました。 ジョブズは、Apple IIIとサヨナラした同じ日にApple IIのコンパクトバージョンとなるApple IIcを発表しました。 ちなみに、サンフランシスコでの式典「Apple II Forever」というイベントはマグニチュード6.2の地震で中断されたそうです。


1984年(其の二)

最初、Macの売れ行きはいい感じでしたが、次第に低迷してしまいました。理由は競争力のある機能性が不足していたから。 プログラマー達は、絶え 間なく、プログラムのためにディスクを交換したり、ファイルを保存しなくてはいけない事を「ディスク交換オリンピック」なんて冗談にしたりしていました。

一方、マイクロソフトのペイント、ワード、ライトの3つのプログラムは、使い勝手のいい、まれなアプリケーションでした。

人々は自分たちが何を欲しがっているのか? 市場調査をしないジョブズに不満を持ち始めました。 そんな中、ジョブズは再びLisaチームでの影響力を手に入れ、新たに結成されたMac/Lisaチームで、自分にもチームの皆にもストイックに開発を進めていました。

その頃、ジョブズのMac開発チームは、自分たちが「1週間あたり90時間働き、それを愛している」というモットーのうえに、奴隷のように身を粉に して働いているのに、Lisaチームのスタッフや下級技術者と比べ、賃金が極めて低いことに気づいたんです。彼らはジョブズに騙されたと感じていました が、士気が下がるという問題はボーナスで軽減することができたそうです。

この年、ジョブズは5万ドルかけて新しいCMを打つことにしました。ルーズヴェルト大統領と戦争をテーマにして「1944」のパロディ「1944」 を流し、IBMコンピュータに戦争をしかけました。 ジョブズはフォーチュン誌で、「IBMは私たちを地球から滅亡させたがっている」と語ったりもしてい たそうです。

ちなみに、この頃のジョブズの恋人はマヤ・リンというアーティストでした。そして、この年ジョブズは、あのジャックリング邸を購入したんです。 1926年に、銅鉱山の大物実業家ダニエル・ジャックリングのために、有名な建築家ジョージ・ワシントン・スミスによって建てられたジャックリング邸で す。購入したものの、ジョブズが住んだのは10年ほどだったそうです。ジョブズって彼女ができるたびに高い家を買うん傾向があるのかも!? 

色んな意味でギラギラしたジョブズの生き方がどうなっていくのか? ジョブズの半生記は、まだまだ続きます。

- Brian Lam(原文/junjun )


さてさて、ジョブズ先生の休養にあたって、その偉大なる半生を振り返ろうと組まれた、特別大長編企画【ジョブズ半生期】! 
今回はその第5部(1985年-1987年)です。
たった3年? と思われる読者様もいらっしゃるかと思いますが、ジョブズ先生にとっては新会社を設立したり、自分の遺伝子に思いを馳せたり、非常に盛り沢山な3年間です。




1985(part1)

この年、ジョブズとウォズは当時の大統領、ロナルド・レーガンから第1回アメリカ国家技術賞(技術分野ではアメリカ合衆国で最高の栄誉とされている賞)をもらいます。
受賞の前か後なのかははっきりしませんが、とにかく受賞したころ、ジョブズはウォズがAppleを退職していたことを知ります。かつての親友なのに退職したことすら知らなかったんですね。
ウォズはAppleを退職後、カルフォルニア大学バークレー校にロッキー・クラークという偽名を使って入学し、CS/EE(電子工学)の学位を取得します。

1985年はジョブズにとって而立の年。サン・フランシスコで開かれた、ジョブズ30才の誕生パーティーではThe First Lady of Jazzとも称されるエラ・フィッツジェラルドにショーを行ってもらっています。
また抜群のプロポーションと金髪で知られる、スーパモデルBo Derekを訪ねて、Macユーザーになるように口説きますが、彼女はMacにもジョブズにも関心を向けず。。。
他には、たまたま見たビデオによって、ヨーロッパに核兵器の照準をあてるためにAppleⅡが使われていることを知り、プレイボーイ誌でその事を快く思っていないとコメントしたりしています。

それから、この年で一番重要な事件が!
まず、Apple社内でのジョブズの立場が危うくなり始めます。
Appleの役員らはMacの売り上げ台数予想が実際と大きく異なっていることでジョブズの責任を追求し、ジョブズの経営スタイルへの不満を表し始めます。

ジョブズのマーケティングの補佐をしているMike MurrayはAppleがかかえている問題をメモにまとめ、その多くの原因がジョブズにあることを示しました。
この後ジョブズは、「現実歪曲空間(reality distortion field)」と称されている、知らず知らず人々を巻き込み、感動させてしまう能力を以前ほど発揮できなくなってしまいます。

役員会とスカリーはジョブズからMacグループでの権限を取り上げること、Lisaのプロダクトラインを中止することを決定します。
ジョブズは、中国への出張中にスカリーを追い出そうと計画しますが、副社長の告げ口によってスカリーにばれてしまいます。
計画を知ったスカリーがジョブズに問いただすと、
「君はAppleにとって害となっていると思う。この会社を経営するのに相応しくない。」とジョブズは開き直ります。
これを受けてスカリーは翌朝、緊急会議を開き、
「会社を経営しているのは僕だ、スティーブ! 会社のために君に出て行ってもらいたい。今すぐ!」と発言し、
会議に集まった役員に、ジョブズかスカリーか、を選ばせました。
その間、ジョブズは終始発言しなかったそうです。
ジョブズは、自分がペプシから引き抜いてきたスカリーのリーダーシップを再確認し、それを賞賛しましたが、その一方で、なんとかスカリーに打撃を与えようともしたようです。

そんなこんなで、1985年5月28日火曜夜、ジョブズは会長職以外の全ての権限を失うことになりました。
友人らはジョブズが自殺するのではないかと心配したようです。









1985 Part 2


Appleから事実上必要とされなくなったジョブズは次のステップについて思いを巡らせます。
NASAに行ってスペースシャトルに乗る? 政界に進出する? バイオテクノロジーを勉強する? 
結果、ジョブズは、自分の情熱が革新的な製品を作ることに対して向けられていることを再確信するに至り、新たなベンチャー企業を立ち上げることにします。 

そこでAppleにベンチャー企業を立ち上げることと、会長職から退く意思を伝えます。Appleは始め、彼を会長職に留め、彼の新しい会社に投資することを検討しましたが、ジョブズが技術者を引き抜いていることを知り、ジョブズには完全に退職してもらうことにしました。

ジョブズの退職は実にドラマチックに演出されました。時刻は夕暮れ時。ジョブズがMike Murrayに退職届を渡す様子をプレスが見守ります。この時ジョブズはプレスに向けて、こんな風に発言しています。



もしAppleがコンピューターをただの日用品と考え、ロマンスを失い、人類が生み出した発明品の中でもコンピューター は信じられないくらい偉大であるということを忘れてしまったのなら、自分にとってAppleとはもう失われてしまったということだ。だがもし、まだこんな 風な考えを持っている人がAppleにいるなら、僕の理念がまだAppleに残されていると感じることができるだろう。たとえ、僕自身が何万マイルも遠く にいたとしても。

退職すると、ジョブズは、Appleの経営に信頼がおけないとして、当時持っていたApple株400万枚以上(1100万ドル以上)を売りに出します。この時、1枚だけ売らずに手元に残しておきますが、その理由は、感傷からだとも、4半期報告を受けるためとも言われています。

この年マイクロソフトがWindows 1.0をリリースします。これは初期のMac OS GUIs を真似して作られています。(まぁMac OS GUIsもXerox GUIsを真似してるんですけどね。)
スカリーは、ビル・ゲイツにMacの技術をWindowsで使用することを許可したのです。そして代わりに、WIndows版Excelの販売を延期してもらい、Appleがこの市場参入するための足場をつくる時間を稼ぎました。

ジョブズは新会社をNeXTと名付けます。
最初のプロジェクトは高等教育のためのワークステーションでした。
これはジョブズのバイオテクノロジーに関する興味に端を発しており、学生が買えるほど安く、しかし高度な研究のシミュレーションに耐えうるほどパワフルであることが求められました。

ビジネスウィーク紙の記事から、NeXTの前広告担当者Andrea Cunninghamのコメントを紹介します。



ジョブズがやりたかったことの1つは、世間にAppleはただのラッキーだったわけじゃないってことを分かってもらうこと。それからスカリーは彼を追い出すべきではなかったと証明することだ。

またこの年、AppleはLisaの生産を中止します。




1986

NeXTのブランドを確立するのためのデザインをPaul Rand(IBMのロゴを作ったデザイナー)に依頼します。報酬は10万ドル。上の画像はその一環でデザインされたNeXTのロゴです。

このころ、娘のLisa(当時7才)との関係を築き始めます。また、所有していたApple株を売り終わります。

それから、ルーカスフィルムのコンピューターグラフィック部門であるPixarをたった1000万ドルで買収します。しかも内500万ドルはPixarの運営に使われるという条件で! 
ジョブズがPixarを買ってくれたおかげで、ルーカスもスター・ウォーズの株を売らずに離婚費用を用立てることができたそうです。
好条件に見えた買収ですが、ジョブズは、「1986年にPixarにどれだけ維持費がかかるか知っていたら、Pixarを買わなかったよ。」とコメントしています。




1987


ロス・ペロー(米実業家)がジョブズをテレビで知り、投資したいと電話をかけてきますが、ジョブズは冷静を装うため、わざと1週間待ってから返事をします。
ペローは2千万ドル出資して、NeXTの株16%の保有者となります。

それからジョブズは1985-1987のどこかで、彼の生みの親の詳細について知りました。そして、妹がいる事も。
母、Joanne Carole Schieble、スピーチセラピスト。

父、Abdulfattah Jandali、シリア人の政治学者。

妹、Mona Simpson、現在小説家として活躍中。
そして、Mona は著書「Anywhere But Here」の出版パーティーにジョブズを連れていき、パーティーの出席者に2人は兄妹だと告げます。
Monaの小説「A Regular Guy」に登場するメインキャラクターのモデルはジョブズだという噂もあります。

(ちなみにMonaの夫Richard Appelは「ザ・シンプソンズ」の脚本家で、マージ・シンプソンの母親の名はMonaから付けられているとか。)


この何年か前に、彼の性格は産みの親や遺伝子からではなく、どんな体験をしたかから作られていると主張していたジョブズにとって、自分とMonaがとても似ていると感じることは非常に衝撃的なことでした。
Steve Lohrはニューヨーク・タイムズ誌にこう書いています。



妹との交流は、ジョブズに運命を冷静にとらえる感覚のようなのものをもたらした。彼は切迫した状況を全てコントロールすることに固執しなくなり、自然に訪れる結果にもっと信頼をおくようになった。つまり、遺伝子とは妙なもの、ということだ。

会社関連では、NeXTのロボット工場をフリーモントに建設します。これは賃金を抑えるためではなく、回路をより正確にはんだづけできるレーザーを使い、品質を向上させるためだそうです。


いやぁ、濃厚な3年間ですねー。
自分で設立した会社Appleを、自分が引き抜いてきたスカリーに追い出され、それに屈するものかと、新会社を設立し、他の会社を買収したり、投資家を見 つけたり、工場を建設したり。しかもその間に、今まで認めていなかった娘との交流や、前には存在すら知らなかった実の妹の交流も始めています。
波瀾万丈なジョブズ。これからどうなるんでしょう?第6部もお楽しみに!


Brian Lam(米版/mio)


3度目の病養に入ったジョブズの快気を願う7回連続の長編特別企画【ジョブズ半生記】。第6部(1988-1996年)はジョブズのエグザイル期。天皇放逐後のアップルは首をコロコロ挿げ替え、まるで太陽を失った大地のように凋落していきます。


1988年

WindowsがMac OSと不気味なほどソックリに。AppleはWindowsでMacの技術を使う昔の契約が勝手にWindows 1.0に延期されてるわい、と、GUIの無断コピーでMicrosoftを訴えます。

一方ジョブズ。パーティーで、発売もされないうちからNeXTコンピュータをスペイン国王フアン・カルロス1世に売りつけます。相変わらずです。

10月にはシンフォニーホールでNeXTコンピュータ(愛称Cube)を発表し、そのステレオサウンド処理をお披露目。マシンはマグネシウム筐体 で、イーサネット専用ポート、インライングラフィックスとメール内オーディオ装備(当時としては珍しかった)だったのですが、いかんせん画面が17インチ のモノクロ...その頃には大学もほとんどのところがカラーを欲しがってたし、NeXTの光磁気ディスクはちょいと遅過ぎ&高過ぎました...。インダス トリアルデザインはあの著名なフロッグデザイン創始者ハルトムット・エスリンガーに任せたんですが、それも全部彼の一存で決めて良しという条件付きの契約 だったんですね。

広報は「ジョブズもちょいと丸くなって自覚症状が芽生えてきた」とマスコミに喧伝します。が、ある元社員に言わせると現実にはまるで正反対だったようですよ。「みんなひとり1票ずつ投票すると、スティーブはひとりで70票投票してきたもんだ」

そんなスティーブではありますが前と変わったところも確かにありました。その良い例が、普通では考えられない給与体系を組んだこと。NeXTでは 90年代初期まで、なんと社員の給与は勤続年数に応じて5万ドルか7万5000ドルの2段階しかなかったんです! 支払日は月1回、向こう4週間分の小切 手を渡すかたちで行います。新たに入社した上級管理職には会社株の2%が支払われました。まさに黎明期アップルの報酬・恩賞のカオスとは天地ほども違う平 等主義!

大学はお得意様なんですが、各大学から重鎮を招いてのディナーではスタッフがジョブズ様用ベジタリアン料理を用意するのをサボったため、部屋に集まった全員のメインディッシュをキャンセルし、潜在顧客を全員腹ペコのまま放置する一幕もございました。









1989年

ビートルズのレコード会社「Apple Corp」がAppleを「同じ名前つけるなコラ」と提訴します。ジョブズは大のビートルズ・ファン。自分の事業モデルはビートルズのそれと同じ、パーツ を合わせるとそれに関わった一人ひとりを足すよりグレイトになるんだよ、と発言したこともあるほどなのに...片思いとは辛いもの...。

GUI著作権侵害でMicrosoftを訴えたAppleをゼロックスがGUI著作権侵害で提訴。三つ巴の戦いに。

NeXTキューブ、カスタマー向けに出荷開始。出荷日の遅れについて質問が及んでもジョブズは、出荷が遅れてもこのコンピュータはまだ時代の5年先を行ってるんだぜい、と余裕シャクシャクです。

1989年、氷河期Appleは最後のLisaコンピュータ2700台をユタ州ローガンのゴミ処理場にこっそり埋めます。売れ残った在庫にかかる税金が帳消しになるように...。

Mac Portable発売。



1990年

ジョブズが講演に訪れたスタンフォード大学MBAで、在学生ローレン・パウエル(Laurene Powell)さんと出会ったのは、ちょうどこの頃のこと。

電話番号の交換まで漕ぎ着けた早業ジョブズですが、あいにくその晩はビジネスのディナーで予定が塞がっていました...。

「駐車場に戻って車にキーを挿し込んで、ふと思った。これが地上最後の夜なら会議なんて出るか? この子といたいんじゃないか? 僕は駐車場を一目散に駆け、彼女を晩ご飯に誘っていた。彼女はYESと言ってくれた。それから一緒に街まで歩き、以来ずっと離れずにいる」




1991-1992年

PowerBook発売。

3月18日、ヨセミテ国立公園のアワニーホテルで、グルと仰ぐ日本人禅僧・乙川弘文(Kobun Chino)さん立会いのもとスティーヴン・ジョブズ(36)とローレン・パウエル(27)ご両人の挙式がささやかに執り行なわれます。

9月長男誕生。ジョブズ父子2代の母校(リード大学)に因み、Reed Paulと命名。

この頃からリサも父ジョブズの家に入り、ティーンエイジの多感な時期はずっと一緒に暮らします。




1993年

Newton Message Pad発売。
Macintosh TV発売。

6月、役員会はジョン・スカリーを解任し、Apple欧州支社トップのマイケル・スピンドラーを新CEOに据えます。

たった5万台売っただけでNeXTはハードウェア事業から撤退、ソフトウェア専業に。NeXTSTEP OSをIntel 486にポートする作業を進めます。


1994年

PowerMac 6100/60発売。
QuickTake Camera発売。


1995年

ハワイで家族ぐるみの休暇中、親友のオラクルCEOラリー・エリソンと海岸を散策しながら、Appleの敵対的乗っ取りの勝算に話が及びます。投資 金として300万ドル用意し、ジョブズの王位復権を図るというプランで、「かなりがなり実行に近いところまで行った」のですが、 「結局反対を決めたのはスティーブだった」とエリソンは後日NYタイムズに話しています。

ジョブズはこう言ったそうです。「自分はやっぱり敵対的に乗っ取るタイプの男じゃない。彼らの方から会社に戻ってくれと請われたら話は別だけどね」

ピクサーが映画『トイ・ストーリー(Toy Story)』リリース。ジョブズが所有するピクサー株80%の価値は一挙6億ドルに。

巷ではMacのクローンが乱立。

スティーブ&ローレン・パウエル夫妻の第2子Erin Seinna誕生、今度は女の子。

Microsoft対Apple訴訟がついに決着。結果はApple敗訴(対ゼロックスの方はApple勝訴)。




1996年

「悲しい事実だが...Microsoftが作るのは...まったく三流な製品ばかりだ」と、インタビューで毒づくジョブズ(写真上)。

フォーチュン誌からの取材では、こんな意味深な発言もしています。「実言うと僕には、Appleを救う一案がある。Appleにとって完璧な製品、完璧な戦略だという以上のことは言えない。だけどこの僕の言うことなんてあそこの連中は誰も耳を貸さないだろうよ」

マイケル・スピンドラーに代わってギル・アメリオがApple CEOに就任。たちまち同社株価は過去12年で最低の水準まで下落します。

AppleのOSも古くなり後継が必要に。AppleではBeOSを買収する案、果てはMicrosoftからWindows NTをライセンス供与してもらう可能性まで出たんですが、結局白羽の矢を立てたのはNeXTとNeXTSTEP OSで、これがiPhone、Mac全製品で使う今のOS XのUI、アーキテクチャー、マルチタスキング機能などにモロに影響を与えてゆきます。

AppleはNeXTを4億3000万ドルで買収し、150万ドル分のアップル株をジョブズに渡す意向を発表、ジョブズを顧問としてAppleに呼び戻します。

ジョブズは傍目にも分かるほど、管理スタイルが丸くなっていました。ピクサー元社員はこう言っています。「 前はこっちがふた言三言も口を開くと、『はいはいわかった、だけど俺はこう思うのさ』とビシャッと相手の口を遮っていたものですが、そういうのはなくなり ました。今の彼はもっと人の話をよく聞きますね。もっとリラックスしていて、もっと大人かな」。こんな風に変わったのも人をもっと信頼できるようになった お陰だとジョブズは話しています。「今はもっと人を信用できる」

こうしてジョブズは再びAppleの土を踏みます。本社に足を踏み入れるのは1985年以来初めて。かつて石もて楽園を追われたジョブズはこの時、別人のように生まれ変わっていました。


ピクサー本社正門前のりんご並木(撮影:訳者)


株が紙屑同然となったアップル...救済に戻ったジョブズの「一案」とは? 次回最終回をお楽しみに!


Brian Lam(原文/satomi)





1997年
「ギルはジョブズにめちゃくちゃやられるだろうね。ギルの鼓膜は破れるよ。」とは、元Apple社員(匿名)がジョブズ復帰について米ニューヨーカー誌にコメントしたもの。このコメント通り、ジョブズはさっさとギル・アメリオを追い出し自身が暫定CEOに就任する。

ジョブズのコメント
「Appleを救うために必要なのはコスト削減ではない。必要なのはこの窮地に立たされた現状を革新することだ。」

ジョブズはDellのコンピューターのことを面白みのないただのベージュの箱と揶揄。マイケル・デルはこれに対して、自分がAppleの経営者なら株主にきちんと配当を渡す事ができるのに、と応戦。

ジョナサン・アイブが入社。
Appleのデザイン新時代の幕開け。
アイブ初のプロジェクト、DVDプレイヤー・TVチューナーのついた20周年記念Macintoshが発売される。



1998年
ジョブズは多くのプロジェクトを中止させ、コンピュータだけに焦点をしぼる。

Eve Jobsが産まれる。

最初のiMacが誕生する。



1999年
Pirates of Silicon Valleyが放映される。
ノア・ワイリーがジョブズを、アンソニー・マイケル・ホールがゲイツを演じている。映画のオープニングシーンはスーパーボウルのCM枠で放送されたCM「1984」のセット。


2000年
ジョブズが正式にAppleCEOに就任。

PowerMac Cubeが発売される。

ジョブズは1984年に購入したJackling Houseに手をいれるのをやめて放置。






2001年
Apple初の直営店がヴァージニア州 マクレーンにオープン。

iPodが発売される。

OS X 10.0が発売される。



2003年
フルアルミボディのPower Mac G5が発売される。

アル・ゴアがAppleのボードメンバーに加わる。

ジョブスの膵臓に悪性の腫瘍があることが判明。治療可能な膵臓癌という稀な種であったため、ジョブズは9ヶ月間様々な薬物投与の治療を試すも、その結果は残念ながら芳しくなかった。



2004年
7月、ジョブズは腫瘍摘出手術をうけ、療養のため1ヶ月の休暇にはいる。
この時、ジョブズはPowerBook(17インチ)を使い、病室からApple社員にメッセージを送っている。
「みんなに知らせなければならない個人的な話がある、そしてこれは自分から直接みんなの耳にいれたいと思う。この週末、私は膵臓から癌性腫瘍を摘出する手術を受けた。」

ジョブズはJackling Houseを取り壊してその土地に新しく家を建てる許可を得るも、地元の歴史的建造物の保護を訴える団体がこの決定に対して差し止めを要求する。



2005年
x86インテルのハードウェアでOS Xを起動させるためのプロジェクト「スタートレック」が実を結び、AppleはMac内部にインテルを使用することを発表。よって、Windowsと Macは部品という面から見ると本質的には同じものになる。ソフトウェアとデザイン性のみが両者の相違点となる。
ジョブズのデザインへの注目(早い時期からそうであった)とNeXTで学んだハードよりソフトを重視するということが、今後のApple牽引に大きく役立っていくことになる。

Macの父とも言える、ジェフ・ラスキンが膵臓癌のため、地元カリフォルニアのPacificaで息をひきとる。

ジョブズ、50歳になる。

iPod Nano、Video iPod、iPod Shuffleが発売される。

ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で式辞をのべる。
この式辞は大きく3つのパートで成り立っており、1つは、教育について。大学は中退したもの、なぜ自身は大学進学を選びそして何を学んだか。1つは、Appleへの情熱とその愛するAppleを失った経験について。そして最後の1つは、自身の癌体験と死について。
この動画や文章はオンラインで広く出回っている。ジョブズの第2Apple時代で、最もプライベートが垣間見えるものである。



2007年
iPhoneが1月に発表され、6月に発売される。

Apple TVが発売される。



2008年
Macbook Airが発売される。

ジョブズの痩せ過ぎを理由に健康面での噂が多く出回るようになる。

Psystarが400ドルのハッキントッシュを発表する。

ジョブズはKeynoteプレゼンテーションを(ジョブズ1人だけでなく)他のApple役員と共に行うようになる。

余談だが、この頃に米Gizmodoはジョブズは体調が悪く翌年春には一線から退くのではないかと噂していた。多くの大手メディア(特にCNBCの局長Jim Goldmanとウォーストリート・ジャーナルの記者)はこれを2009年の1月まで否定し続ける。



2009年
ジョブズは療養のため1月から6月まで休暇をとることに。
この間、ジョブズがCEOのまま、ティム・クックが暫定業務を行うことになる。

ジョブズはJackling house建て壊しの許可を得て、サイズダウンした家を同敷地内に建てる。

ジョブズ、テネシー州で肝臓移植手術を受ける。
これに対して、ニューヨーク・タイムズ誌は、なぜジョブズはそんなに早く肝臓移植を受けることができたのか? と疑問を投げる。その問いに、病院側はジョブスの許可を得たうえで、ジョブズがレシピエントの中で最も病状がひどかったからだと回答している。

6月ジョブズはAppleに復帰する。その際のプレスリリースにはジョブズ自身のコメント入り。
本社で姿が見られる。



2010年
ジョブズによるkeynoteのプレゼンテーションでこの年は幕をあけ、iPadが発表される。

Googleのスローガン「Don't be evil」を「クソくらえ」と揶揄する。

会社同士がライバルとなっていく中で、元ギーク友達のエリック・シュミットと敵対するようになる。その後2人がミーティングをしている姿が見られるが、やはり張りつめた空気が感じられる。

6月にiPhone 4を発表。

iPhone 4のデザインの欠点により、持ち方によって電波受信感度が悪くなるとう問題が発生。ジョブズはこれに対するユーザーからのメールに「そんな風に持つのを避ければいいだけだ。」と返信。

その後、iPhone 4のアンテナ問題に関するイベントを開きiPhone 4を擁護するも、ユーザーへの無料バンパー配布を発表。さらに、米ウォール・ストリート・ジャーナルのアンテナの開発にミスがあったとする記事に対して 「クソくらえ」とコメントし、ニューヨーク・タイムズにたいしては「でっちあげだ」と訴える。この時に自身の健康状態に触れ良好だとコメントする。

Magic Trackpadが発売される。

ジョブズによるkeynoteプレゼンテーションで、Apple TV、iPod nano、iPod Touch、iPod Shuffleの新モデルが発表される。

22歳ジャーナリズム先攻の学生とメールのやりとりで「我々のゴールには、君が良い成績を取るための手伝いをすることは含まれていない。」と返信、最終的には「頼むから放っておいてくれ。」とコメント。

iPadの売り上げが初めてMacを超える。

ジョブズによって、OS X Lion、iLife' 11、MacBook Air新モデル(2種)が発表される。

Financial Timesがジョブズを今年の顔(Person of the Year)に選び、「アメリカでは人生に2幕目はない」というF・スコット・フィッツジェラルドのアフォリズムを完璧に反証したと評する。



2011年
米Verizon社からもiPhone 4が登場。この発表会にジョブズ氏は不参加。

ジョブズからApple社員に、再び病気療養休暇にはいるという内容のメールが届く。ジョブズはCEOのまま重要な戦略決定等には関わり、ティム・クックが暫定業務を行うことになる。またこの療養休暇が肝臓移植や膵臓癌に関連したものかどうかは不明。
Apple社員に宛てたメールの中でジョブズが「私はAppleをとても愛している、できるだけ早く復帰したい。」とAppleへの想いを語っている。


先日病気療養休暇にはいると発表したばかりのジョブズ氏。今年で56歳なのですね。ゆっくり休んで1日でも早く復帰で きることをギズモード一同願っております。「アメリカでは人生に2幕目はない」を反証したジョブズ氏。米Gizmodo Brian記者作のこのタイムラインがさらに長くなり、3幕も4幕も、これからもずっと我々を驚かせて楽しませてくれるといいですね。


興味深い文に感激。ストーリーは誰にもあり、誰にも道はある。御供

2011/01/08

アレン・ギンズバーグ


「僕は人間的でないどんなものにも支配されたくない。意識を拡大しようとする道徳的義務感にも縛られたくない。心のあるがままに僕は生きたい」
アレンはスピリチュルなものを探す人間の究極のゴール。
また心の尊厳を求める態度を示す言葉。
「偽善と尊さ。俗っぽく下品なアメリカ」
彼らにとってドラッグはあくまでもそうした精神の旅への、
自分を駆るための手段であった。
決して目的ではない。
「永遠の心の輝き。そいつを胸に抱けばキミは雪山のように静かでピュアでいられるはず、いやそれよりもっと高く」
不滅のやさしさと裸の真実をビートしつづけた天使たちは、
たくさんの詩と歌と物語を残して遠い世界に旅立っていった。
そして後に残されたたくさんのハート・ビートは、
そのときめきの向こうに間違いない。
道はどこまでもつづくのだ。
ビート・ゴーズ・オン!
御供

2010/12/30

ゴーギャンの夢


楽しいひとときを君と過ごそう。
君のそばでいつまでも、
僕は君の最良の友となり、
生涯の友情を誓い合おう。
君は私の輝く宝石。
かけがいのない大切な宝物。
時の続く限り君に捧げよう。
美しく咲き誇る高貴なバラに、
私の限りない愛を。
わが愛しの君よ。
ゴーギャンより
御供 1998/7/28

2010/12/17

愛する ヘッセ


私はおまえを愛するから、
私はおまえを愛するからこそ。
夜、こんなに狂おしくおまえのところに来て、
ささやくのだ。
おまえが決して、
私を忘れることのできないように。
私はおまえの魂を持ってきてしまった。
今はもう、
おまえの魂は私のもとにあり。
すっかり私のものになっている。
良きにつけ、悪しきにつけ。
私の燃える狂おしい愛から、
どんな天使もおまえを救うことはできない。
ヘッセ
御供 1995/10/24

2010/12/15

私は星だ


私は大空の星だ。
世界を見つめ、
世界をあなどり、
自分の熱火に焼け失せる。
私は夜ごとに荒れ狂う海だ。
古い罪に新しい罪を積み重ねて、
きびしい生け贄をささげる嘆きの海だ。
私はあなた方の世界から追われ、
誇りに育まれ、
誇りに欺かれた。
私は国のない王様だ。
私は無言の情熱だ。
家にはかまどがなく。
戦争では剣を持たない。
自分の力のために病んでいる。
ヘッセ
御供  

2010/12/13

フロイト


「働くことによる個の自立」
社会国家に頼れない。
自分しか頼りにならない。
だから絶えず働いてお金を貯え、
迫害にあっても生き延びなければならない。
誰にも頼ることの「個」の重みに一生耐えて暮らさなければならない。
ナチに迫害されて亡命する時も、
そのために金貨を蓄えていた。
「科学的世界感」
人種国家を越えたこのような知性による普遍的な連帯こそが、
人類を進歩させ、また人類に平和をもたらす。
当時のヨーロッパにおける宗教が、
いかに権力による一般の農民や市民を搾取する手段かわかる。
人間の知と盲目にするものであったか。
「無意識」
日常意識している心の流れの深層。
抑圧された無意識の心の流れがあって、
しかもそれがヒステリックという解離現象や二重人格現象などの、
精神病現象の形で表に現れてくる。
人格というものは、
誰もが持っているほど統一されているものではない。
絶えず表と裏の葛藤に動かされている。
☮MITOMO♥


2010/11/30

画家の喜び


黄色は黄色に。
そして黄色は赤に染まり。
涼しい青はバラ色に帯びる。
光と色は世界から世界に駆け巡り、
愛の大波になって沸き上がり響き渡る。
精神を支配し、
病めるものすべてを癒す。
新たに生まれた泉からは緑が萌えたち、
世界は新しく意味深く分けられる。
心は喜びに満ち、
晴れやかになる。
ヘッセ
御供 1996/6/15
絵を描くことは素晴らしいことです。
昔は自分が良い目を持ち。
地上の深い深い散歩者であると信じていました。
しかしそれは今ようやく始まるところなのです。
絵を描くことは呪われた世界遺志からの解放なのだ。

2010/11/28

トム・ウェルツ


俺の一番得意な楽器。
そりゃ、ボキャブラリーさ。
人間は夢という力を使ってもっといい場所へ行ける。
自分に合った場所に行けると思うんだ。
そのためには半端じゃなく、
激しく夢を見ることさ。
トム
御供 1998

Steve Jobs氏


Steve Jobs 氏によるStanford大学卒業生への祝辞
the Stanford University Commencement address
by Steve Jobs CEO,_Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios.


PART 1: BIRTH
どうもこんにちは。世界有数の最高学府を卒業する皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。
私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」彼らは「もちろん」と答えました。
しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

PART 2 :COLLEGE DROP-OUT
こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。
そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。
夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

PART 3: CONNECTING DOTS
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。
こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。
もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。


PART 4 FIRED FROM APPLE
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が20歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。
ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。
その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。
思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けるこ
と。落ち着いてしまってはいけない。


PART 5 ABOUT DEATH 
3つ目は、死に関するお話です。
私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」それに対する答えが「NO」の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。


PART 6 : DIAGNOSED WITH CANCER
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。
以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。


PART 7 : STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
私が若い頃、「The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)」というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
スチュアートと彼のチームはこの「The Whole Earth Catalogue」の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「ハングリーであれ。馬鹿であれ」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。Stay hungry, stay foolish.
それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。
ご拝聴ありがとうございました。

2010/11/18

現代散文のため


1、自分自身の喜びをらくがき帳に詩として書く。
2、あらゆるものに偏見を持たず耳を傾ける。
3、自分の人生を愛する。
4、感じるとこのものはそれ自信の理想を見つけ出す。
5、くだらない精神にとらわれず熱狂する。
6、好きなものだけ探し息を吹きかける。
7、心の底から再現なく望むところを書く。
8、個人というものに対して語らえぬビジョンを持つ。
9、確かに存在するものに時間を費やす。
11、空想的で病的な終着で胸を震わせる。
12、トランス状態の凝視によって目の前のものを見る。
13、文学的、文法的なものを排除する。
14、プルーストのように時間について年をとったマリファナの常用者のように考える。
15、内面の独白でもって世界の真実を物語る。
16、重要かつ貴重な中心は眼の奥に眼である。
17、自分自身を回想し驚きつつ書く。
18、並みの眼から抜け出て言葉の海を泳いでいく。
19、永遠に損失を受け入れる。
20、人生の聖なる輪郭を受け入れる。
21、心の中で傷つかずあらかじめ存在する流れを描写するように努める。
御供 

2010/11/12

インディアンの教え


1、人生に興味を持ちなさい。
人生は短い。まわりの人々や自然の世界に目を向ければ退屈は去り、生きることの喜びを感じ取る力を養うことができるだろう。
2、等身大の自分でいなさい。
無理に自分を飾ったり、卑下することはない。自分の力を誇示したり、短所を無視することからは決してよい遺志は生まれない。ありのままの自分を受け入れ正直にふるまえば、他の人を受け入れることを学ぶだろう。
3、人間性を養いなさい。
自分自身が誰なのかを知り、生まれ持った使命を見つけ出しなさい。自分自身への憐れみの心を育てなさい。そうすれば自分自身の問題が見え、自分の持つ能力がわかるだろう。正当で情け深い自己評価こそ、自分自身を助け、さらには他の人を助ける基盤になるのだ。
4、心の中にある自分。
自分や他人、世界への恐れを認め、乗り越えなさい。誰にでも恐れはある。恐れを捨てることではない。恐れに立ち向かい、乗り越えることである。
御供 2001/8/20

2010/11/03

ディシャン


言語はまったくの役立たずです。
私が使用するのはそうするしかほかならないからです。
私はそれにどのような信頼もおいていません。
われわれは互いに理解し合えるものではありません。
私はかつてすべての言語は同語反復になる傾向がある、
それを証明するイギリスの哲学者のグループに興味を抱いたことがあります。
私は彼らの「意味の意味」という本を読もうとすらしました。
一語も理解できませんでした。
しかし、コーヒーは黒いと言った類いの文章にのみなんらかの意味がある。
直接感覚で知覚された事実だけがなんらかの意味がある、
という彼らの考えに賛成です。
それを超えて抽象になって否や、
わからなくなってしまうのです。
言葉を絵画から引き出し、
さらに言葉だけの独立した領域を創り出すこと。
そして、それを絵画と並置させること。
ディシャンの油絵の放棄への歩みはそういう過程と平行していた。
ディシャンの特質とも言える言葉の遊び、他口、もじり、
しゃれは言葉は現実の写像ではないという。
彼の知覚と切離し得ないだろう。
御供 2000/11/17

2010/10/02

不滅を終わらせるために


アメリカの会話体のリズムにしたがって短いラインの詩を書いた。
一篇のちっぽけな詩など書かずに自分のイマジネーションをする。
何も包み隠さず勇敢に書きたいことを書き、
自分の心の奥底から溢れ出るラインを書きなぐって人生を要約する。
自分の示すことのできない何ものかを、
自分の魂の耳、あるいは他の数少ない耳に聞こえるように書くこと。
「僕は見た僕の世代の最高の精神たちが」
僕は詩にビートをつけリズムを持たせるために。
そして僕は僕の想像とかが永遠に真実であるというものへと進んだ。
詩の中で長いラインを散文にならないように維持するためにはどうしたらいいか。
それには感動的なナチュラルなインスピレーションによるほかはなく。
これらの詩は長いラインをつかった詩の一連の実験なのである。
「不滅を終わらせるためのー1」
マリファナについて明らかにすべきことがいかに多いことか。
マリファナによって生じる意識がまさにひとつの意識であり、
それは絶えずおだやかに吸った後の高揚した瞬間もいっそう陶酔するようなこと。
マリファナ体験者は説明的な言葉を必要としない。
そんなことは要するに生体験の驚くべき現実から見ればごく限られた魅力的な一部にすぎない。
マリファナ体験を好まぬ連中はマリファナが麻薬であるという言葉の世界に屈従してしまい、
言葉では表現できない意識の世界の逆宣伝をしている。
しかし世界中に実に多くの人間がマリファナ効果を感じることを望んでいるか。
時間の続行化というくつろいだ時間は本来の好奇心から新しく空間を探求する。
それは精神意識の有効な領域であり、
感受性に関しては敬意をはらわなくてはならない。
マリファナに関するさまざまな否定的イメージがあるが、
習慣性もなくタバコよりも害のないものなのです。
時々酒よりも好んでマリファナを吸い。
ほぼ正常な知覚の変化があった。
マリファナを吸った時、
パラノイア症状を体験するので特殊な視覚的、聴覚的な美の知覚力にとって有効な触媒である。
ここではっきり言わなければならないことは、
詩人、画家、音楽家、映画人、彫刻家、俳優、歌手、編集者などのクリエイティブ人々は長年にわたって、
マリファナを吸ってきたという事実である。
アレン・ギンズバーグ
御供 2000/8/2

病気


夜、ようこそ!
一番星よ。ようこそ。
私は眠りにこがれる。
私はもう起き上がれない。
もう考えることも、泣くことも、
笑うこともできない。
ただ眠りたい。
百年も千年も眠りたい。
頭上を星が移って行く。
私がどんなに疲れているか君は知っているか。
君は微笑みながらかがむ。
髪の中に星が光っている。
もう夜を明けさせないでください。
もう昼が私の中に入ってこないようにして下さい。
白日の光はひどく意地悪く敵意を持っています。
私にはそれを言うことができません。
私は長い暑い道を歩きました。
私の胸はすっかり燃えてしまいました。
夜よ、開け、
そして私を死の国へ導け。
他に願いはない。
もう一歩も歩けない。
母なる死よ、手をかけて、
あなたの無限の目を覗かせてください。
「この詩はヘッセが書いたもので、最近親しい知人が癌でなくなった」
御供 2010/8/7

2010/09/13

ジミー・ヘンドリックスパート2


偶然に出会う音が好きだ。
自然にまかして偶然に出たきた音がいちばんだと思う。
年齢を重ねていくと、
自分に気づかないうちに性格が微妙に変わってしまったりするだろ。
俺たちの音楽もそれと同じことなんだ。
たったひとつのスタイルしかないなんてうんざりするね。
さあ、カントリーかブルースを始めるとするか。
御供 1998/7/28

ジミー・ヘンドリックス


小さなクラブに出ると閉開後のジャム・セッションが楽しみなんだ。
ライブとはまた違った気分でそこにいる連中といっしょに、
違った感じでハイになれる。
違った雰囲気を楽しみながら、
また別の感覚でいい気分になれる。
オーディエンスからは素晴らしいバイブレーションが伝わってきて、
こっちも登りつめていくことができる。
セッションではまた違ったところでハイになれて、
そういった頂点が幾度か感じられる。
パラノイアは頭を去るが、
観客のことは頭にある。
「何だよ、ここはステージじゃないか。さて、どうしたものか」
って、感じだよ。
それから登りつめていく。
まるで、芝居のひとこまのようだ。
だって、様々な角度から物事を考えなくちゃならないからさ。
御供 1998/9/28

2010/09/09

ジャンヌ・ダルクの歌


気分は、
気分はクソみたい。
要するのは、
要するのは酒一杯。
しかもとけることなく死にたくない。
片輪みたいな気分。
やめさせないで、
やめさせたんじゃない。
処女としてでるのを、
私の処女膜をぶち破ってよ、ねえ。
愛をトンカチ、
愛して、
生かして、
死まで一時間。
いったいぜんたい、
死まで一時間。
私はここで何してるの。
私はここで終わるの、
死の時間。
すぐに自由な気分。
セックスしたい気分。
すぐに自由な気分。
走り出したい気分がのしかかる。
髪もない。
ぎりぎりまでない。
頭髪バッサイの国。
クソみたい。
死まで一時間。
すごく自由な気分。
唯一神がやってくれば。
パティ・スミス
御供

2010/09/06

他力の風に吹かれて


———五木寛之氏へーーー
明日はわからないと思って生きて行こう。
文芸的な目を通して、
政治、
語録座をプロフェッショナルな目でみない。
今の時代に求められているもの。
宗教は関係ない。
他力はパワーだ。
人間が人間に与えるパワー。
自己責任は自力の力なくもない。
運命の論を越えて行く。
負けるのも目的に生きているのも大切だ。
個人と神とのコラバレーション。
神=仏。
これを信じる。
これは宇宙の意志。
日の出を見ることはとても大切。
日本人をどう変えていくか。
心の中の本質。
国民をまとめるための宗教。
御供 1998/10/31

トム・ウェルツ


夢工場のあるハリウッドとは西海岸の都市LAにある。
明日の栄光を求めてひしめく通りに行き交う「現代の吟遊詩人」たちの群れのひとりでしかなかった。
その芸能人の中に混じって、
社会に根強い人種差別や核戦争の問題を取り上げ。
その愚かさをあざ笑った最初のコメディアンであろう。
そして溢れる言葉への愛。
「俺が一番得意な楽器。そりぁボキャブラリーさ」
「病んだコミックアウト」を、実行。
人々に対してご機嫌を採るようなことは一切せず。
過激な挑発。
検閲などものともせずに四文字「FUCK」を連発する。
その語りは芸人として命とりにもなりかねない危険を秘めていたが、
反体制的なその姿勢は人々を揺さぶるには充分だった。
自由で気ままな話しの虜になったのは不良ばかりのJAZZ好き。
「彼のおしゃべりの中の怒り、社会への迎合価値への挑戦的態度はまさにジャズメンのそれと言っていい。言葉を爆弾として自在にあたりにまきちらし、二度と同じ繰り返しなどしなかった。何物かに取り憑かれたようなマシンガン・トークはジャック・ケルァックからもらった精神を感じさせる。ラディカリズムの気ままなジョークの泡となって海を漂いはじめ。旅に出た。昔から俺は言葉に興味はあったけど、本気でミュージシャンになろうなんて考えたことは一度もなかった。こうなったのは偶然もいいとこさ。たまたま煙草を買ったら着いて来たマッチの裏に「学歴無く成功する方法」と、あったんだ。載っていた職のリストにテレビ修理士、洗濯屋、掃除夫、保険勧誘、銀行家などあらゆる職業がずらり、なんとなくミュージシャンという言葉に響きが気に入って応募したらこうなったわけさ。俺は学歴なく成功した。生ける見本ってわけだ。そんな道を歩いてみよう。
御供 1998/6/26

アイリーン・グレイ


機械はとりわけ精神修練の一現象である。
生と芸術としての物質主義は、
その直接の心理表現としての手工芸を取り上げる。
20世紀の新しい美的感性は、
機械の美を感ずるだけでなく芸術表現の無限の可能性を感知している。
御供