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2012/08/09

ステッカー・アート




今、巷にはたくさんのテープやステッカーが出回ってひとり歩きしている。そのステッカーたちは世の中の現状を鋭くとらえているものが多いのだ。物質消費文化の21世紀は安価なこれらの絵柄に触れるだけでニンマリできる。無駄だと思っていてもステッカーを貼っている時が私にとって一番楽しいのだからやっている。貼っているとストレスが癒され、やわらかい精神というものがやすらぐのだ。私はそれらのテープやステッカーから、ハッピーなものだけを集めている。たまたま友人から貰ったものや、世界の街を旅しながら出会ったものだ。私はもう長い間「ステッカー・ロッカー」なのだ。例えば旅先のカフェやバス停、地下鉄、街角の信号待ち、、、、。『私は私の道の上』そこらにスマイル・マークのステッカーを貼ることに至上の情熱をかけている。意味はない。もし言うならば。次にそのカフェのテーブルに座った人がニンマリとしてくれたらうれしいということだ。ほかになんの理由がいるだろうか。たぶんこんなくだらないことは誰もやらない。だからこそ、私はこのアートに多くの力を注いで楽しんでいる。確かに無駄かも知れない。でも私にとって他の人の笑顔を想像するということは、人生の喜びの大半をしめている。『アートは後でと』言うけれど。何年、いや何十年か経って、こんなことをしていたヤツもいたんだと、笑ってもらえた嬉しい。このステッカー・アートは私の心の中をポジティブに表現したコンセプチュラルなものなのだ。嫌いなヤツなんて誰もいない。私は誰もやらないことをやって、それに少しでも共感してくれる多くの愛せる友が欲しいだけ。心優しきあまのじゃくのトリック・スターとして、この時代を生きている。一生愛と創造の旅をして、多くのステッカーを貼って、人生を充実させたい。私の心の中にある今までにはないアートなのだ。誰もやらないことだから、私はやり続ける。私の人生の至福のために。なんとなんと楽しい宇宙の中! GO HEAD HAPPINESS AND NO WAR PEACE LOVE EARTH HEALTH
  御供  2012/8/9

2010/11/28

マジック・シアター両角氏


軽くコギぎましょう

 はたして第何次であるのかは知らないが、どうやら巷は自転車ブームであるらしい。
(自転車と書いてチャリとかチャリンコとかバイクとか好きに読んでください。)
そのブームに乗ったというわけでもないんだけど、最近になって僕も新しい自転車を買ってみた。
流行のロードバイクとかピストとかではなく、フォールディングバイクと呼ばれる折りたたみの出来る小径車だ。
MTBも持ってるしBMXも持ってるのに、なぜまたこれを選んだかと言えば理由は単純明快、楽チンだからだ。

 自転車で遠くに出かけることは楽しい。
それは、自力で何処まで行けるのかという、少年時代に誰もが持っていた冒険心のようなものによるところが大きいんだと思うが。
その感覚は大人になってさえ消えることはない。
が、しかし、冒険というのは行ったままで済むわけのものでもなく、行ったからには行った分だけ帰ってこなくてはならない。
30分程度の道程であれば、何割り増しかの時間を費やせば、違う道を選んで帰ってくることも出来るだろうが、5時間も6時間も漕いでしまった日には、そういうワケにもいかない。
遠くに行けば行くほど、同じ道を辿って帰ってこなきゃいけないというリスクは否応なく増していくワケで、これはもう苦痛と言う以外の何者でもない。その手の苦労は”ET”が”KUWAHARA”の自転車で空を飛ぶより以前、僕がBMXに乗っていた少年時代にさんざん体験済みで、そのことは振り返るだけでもおぞましい。当時は20インチタイヤに固定ギアで往復100キロ以上も走ってヒィーヒィー言っていたわけだが、今さら同じような苦労をわざわざ買ってすることもないだろう。多少言い方が悪くなるが、帰り道なんぞにそれだけの情熱は掛けられない、というか、掛けてたまるかという感じだ。

そこへ行くと折りたたみ自転車は楽チンだ。イヤになったらその時点で止めれしまえばいいんだから。
「ああ、今日は良く漕いだなあ。風が爽やかだ」ぐらいの、ノン気なことを言ってられると段階で止めてしまえばいい。
高原の駅に降り立ってサクサク組み立て、景色のいい田舎道を下るだけ下ってそこで止めちゃうというのもいい。
あとは畳んで袋にしまえば普通に電車かバスで帰ってこられるという寸法だ。
その畳み方にしたところで、クイックになった金具をいくつか緩めてやればそれで済むので、じつにお手軽だ。
そのうえ行った先に銭湯か温泉でも探して、ひと風呂浴びてビールでも飲んじゃえば申し分ない。

ヒトって言うのは意外にというか、思った通りにというか、じつに単純な生き物で。「行くところまで行って嫌になったら止めてもいいんだぜ」と
最初から思っていると、案外遠くまで行けてしまう。そういう意味では「今さらながら日本一周」もあながち夢ではないように思う。
とにかく行けるところまで行って嫌になったら帰ってくる。で、次回のツーリングは諦めたその場所まで電車で行って、そこから先の行程にもう一度トライすすればいいんだから。
 気負う必要はないし、格好つける必要もない。気負うからリスクを負うんだし挫折もする。格好つけようとするから必要以上に無理もする。
むしろ日常の延長線上で、そこからほんのチョットはみ出す程度がいい。
バキバキにキメるんじゃなくて「ちょっとその辺にお買い物」ぐらいの軽い気持ちで出かけるのが、かえって格好いいんじゃないかと思う。
皆さんもいかがですか。軽い気持ちで「今さらながら日本一周」。



アトリエ・マジックシアター 
両角 毅

スペクテイター青野氏


THE FOOL ON THE HILL

TEXT : TOSHIMITSU AONO


長く続いた旅がやがて終わりをむかえようとするとき、胸にこみ上げてくる想いがある/楽しかったあの旅の日々が、これからも永遠に続けばいいのに…/きっと誰もが一度は抱いたことがあるに違いない日常と非日常の境界をめぐる葛藤/そして大半の人は、ため息とともに再び日常へと戻っていく/旅を続けるには時間も金も必要だ/それには、まずは仕事をしなきゃ/忙しく仕事をこなしているからこそ新たな旅ができるのだ/とか、なんとか自分に言い聞かせながら/日常から逃れ続けて、一生旅して過ごすなんていうのは、しょせんヒッピーや世捨て人みたいな連中の考えるタワゴトだ/うん、確かにそうかも知れない/それが至極まっとうな常識的な大人の意見ってやつかもね/でも、果たして本当なのかな?/日常から逃れ、旅に出たままの気分で一生を過ごす方法はないものか?/丘の上のバカは考えた/何日も、何日も/紫の煙のなかを手探りで進みながら、心の旅を続けた/そして見つけた答はとても単純なものだった/そうだ、日常のなかを旅すればいいんじゃないか!/レトリックなんかじゃなく、毎日を旅する気分で過ごせたら、それはどんなに素敵なことだろう/旅が現実になれば、仕事をする必要もない/わざわざ長い休暇をとる必要もなければ、旅に出る必要すらなくなるはずさ/それを実行に移すには、まづは道具が必要だ/それさえあれば会いたい人に会えて、やりたいことができて、行きたいところへ連れて行ってくれる/そんな万能のツールを手に入れよう。そうして再び丘の上に登ったバカが思いついた戦略が、一冊の雑誌を作ることだった/雑誌と言ってもコンビニや駅のスタンドで売られているような情報詰め込み型のヤツじゃない/作り手の妄想や思いつきで読者をトリップさせてしまう常識を超えたキラーなコンテンツ/ページをめくるだけで日常なんて軽くふっとんでしまうくらい刺激的/そんな非常識的な中身の雑誌を作ろうじゃないか/かくして一冊の雑誌が出来上がり、丘の上のバカは今も旅を続けている/気心の知れたバカな仲間と日常の中の非日常をサーフィンでもするような気軽な気持ちで、右や左へと彷徨いながら/これから先どこまで行けるか/答えは煙に聞いてくれ

ストラテジアに


知らないおっさんに京都の寺を案内してもらった。やけにフレンドリーでこちらが身構える位。段々どこまで一緒についてくるのかパラのう程。たまたま道を聞いただけなのにそれからここはこうで、あそこも行った方がいいと解説をつけながらあちらこちらへと引っ張り回す。「じゃあそろそろこの辺で」なんて言いかけてると「こっちこっち」とずんずん進んでいく。「知り合いの店があるから」とか言い出してこちらの疑惑はいよいよ深まっていく。そんな時に話だしたのがおっさんはもう仕事を引退して、一人好きだった歴史の勉強をしているとのこと。そして自分が知った京都の歴史を遠くから来た観光客にちゃんと知ってもらいたいって思っているってこと。ちょうどそこまで話すと目の前にあった中華料理屋にひょいと飛び込みながら「ここは友達の店、ほな京都を楽しんで」といいながら突然消えていった。俺はお礼もろくに言う暇もないまま、「あ、あぁおっさんありがとう!」とその場限りの京都弁風のアクセントで返すのが精一杯だった。
帰りの電車で色々考えた。今考えるとおっさんのツアーはメチャクチャ良かったなと。っていうか素晴らしい出会いだったぞと。おっさんがいなければ地元のスポットだっていう特別な景色も見ることがなかった。もっとしゃべれば良かったなと。俺はどうも頭が固くなってきたのに違いない。昔はああいうおっさんともっとすんなり話せたもんだし、怪しいなとか思わんもんだったと。別に無理にそうするのがいいってわけじゃない。実際怪しいおっさんとかインドだモロッコだで散々会ったし、金くれだのなんだの散々せびられたこともある。けどそりゃ最後にそうなったときに対処すりゃいいわけで、昔はもっと心に余裕があった気がしてきたわけ。仕事も金もないときは、持ってるものは時間ばかりで何をするにも余裕があった。仕事も金もちょっとでも持つとだんだん余裕がなくなってくる。
俺は無駄の多い人生がやっぱり送りたい。そうやって普段の生活で会わない人と出会ったり、しゃべったりしてまめ知識を増やして喜んだりしていたい。一日一日の積み重ねで、小さいことに幸せを感じながら、あぁ今日も一日無事に生きれた、そういう毎日でありたい。でかいことやりゃいいとか、新しいことすりゃいいとかそういうんじゃなくて。一期一会こそ人生だってことで俺の神様ジミヘンが死ぬ数時間前に書いた最後の詩を。

人生の物語は目の瞬きよりも短い
愛の物語はまた会うまでのハローとグッドバイ
  文 野村訓一
   御供

2010/09/02

雑誌をつくりたい


時代を見方にして、時代に流されないもの。
今の時代にも、常に楽しく面白いと感じられること。
<ファッションとは一瞬であり、かぶれとは、一生
つづくものである。>
新しい音楽、新しい映画、新しいトレンドを他の雑誌
と同じように書くのではなく。新しくも古くも、感じた
ことを感じたままにうそ偽りなく伝えるということ。
コレはどこに行けば、いくらで買えるというカタログ的
なことを書いて紙を消費していく雑誌ではなく。常識では
考えられないくらいあまのじゃくで、バットハートな心を
持った人間の森大都会に住む<心やさしき反逆者たち>のた
めの雑誌である。
もちろん、一流ブランドのなになにをここで安く買おうな
んていうことはでてこない。むしろ、コレいいでしょ。でも
買えないんだよね。みたいなこと。ほしいでしょ、でも
無理。だって、お金じゃ買えないんだよね。的なモノ、こと
が書かれている。こんな雑誌があってもいいでしょ。
幕の内弁当みたいにあれもこれもじゃなくて,ノリ弁だった
らのり弁みたいなことのほうが、格好いい。意思のない決定な
んてできやしない。
テンションをあげなくていい、リラックスしてふつうに。
シンプルに、大きなものや広いものに触れるほど大事なことが小さく小さく、
ひとつひとつ。そう自分が変わることぐらいはできると思うんだ。
結果として大きな世界をHAPPYにしていくことになればいい。
人間て変なもので誰かのひとことで幸せな気分になれる。
人間て変なもので誰かのひとことで一瞬で変わることがある。
だから、楽しいし面白い。そんな雑誌をつくりたい。
御供

2010/09/01

僕が国籍を変えた理由


力でねじふせてやれ
金和弘というちょっと変わった友達がいた。彼と初めて出会ったのは確か、僕が中学3年生の夏祭りの夜だったと思う。朝鮮学校に通っていた僕らは先輩たちの教えを守るべく、日々喧嘩に明けくれる毎日だった。その教えとは、俺たちの親や祖父母は日本人にさんざにじめられ続けたんだから、ちょっとでも差別的なことを言った日本人は力でねじふせてやれ、というものだった。今から考えると恥ずかしい事だが、当時はみんな真剣だった。
その夏祭りの夜、顔を腫らした日本人の不良グループとすれちがった。僕らとは違う朝鮮学生にどうやら殴られたらしい。その中に金和弘がいた。
僕と一緒にいた血気盛んな友人が、またそのグループにちょっかいかけようとした。その時、金和弘がおどおどした様子で前にでてきた。
「僕も朝鮮人なんだ。日本の学校に行ってるけど。だから暴力はよしてくれ」
次に金和弘にあったのは広島朝鮮高等学校の入学式だった。彼はこれまで民族教育をうけてこなかったので、編入班に入れられ朝鮮語を一から学ぶことになった。彼と僕はクラスは違ったが、寮の部屋が一緒だった。当時、朝鮮学校では同級生の団結は固かった。寮で部屋が一緒だと、それにも増して強い絆で結ばれる。金和弘と僕もそうだった。
寮生活にもそろそろ馴れてきたある日、金和弘は突然寮から消えた。あともう少しで夏休み、という時期だった。寮の舎監に聞いたら家の事情で実家に帰ったという。どうして突然帰ったのかすぐにも理由を聞きたかったが、休みになれば僕も家に戻れる。その時改めて本人から聞けばいいと思った。
3日後、彼から電話があった。
「俺、学校辞める。しばらくの間いなくなるが、心配しないでくれ。また会おう」
理由も聞く前に金和弘は電話を切った。それから丸2年、彼は行方をくらました。
高校3年のゴールデンウィークの前に父から寮に連絡が入った。ちょっと様があるので休暇には家に帰ってこいとのことだった。その頃僕は胃をこわしていて、病院に行くいいチャンスだと思った。

歴史の中にいる父
僕の父は韓国慶尚南道の生まれで、17歳の時、日本にやってきた。今から50年以上も前の話だ。折しもその年1939年は、日本人による朝鮮人の強制連行が始まった年でもある。別名、朝鮮人狩りというこの強制連行によって、多くの朝鮮人が、鉱山、炭坑等で命を落とした。なかには日本軍兵士として前線で玉砕されたものもいた。女性は従軍慰安婦として戦地に送られ、日本軍兵士の性欲処理にあてがわれた。
この強制連行とは別に、1910年の日韓併合による土地調査作業などで、朝鮮の農民のほとんどは土地を失ってしまった。それでも自分の土地だったものを今度は小作人として日本人地主から土地を借りて農業をしなければならない。当時、日本人ひとりが朝鮮に移民してくると、5家族の朝鮮農民が流民となって土地を離れたという。食い詰めた農民は故郷を捨て、日本や満州などに出稼ぎに行くしかなす術はなかった。
僕の父も出稼ぎ組だった。父は山口県の防府、大阪などを転々とし、1945年の終戦を岡山県の倉敷で迎える。
終戦後、朝鮮人は解放された。強制的に日本に連れてこられたもののほとんどはすぐに帰国した。その子孫が2世や3世の僕たちだ。
解放直後の1946年10月、朝鮮人たちは自分たちの人権を保護するための目的で在日朝鮮居留民団を組織した。これが現在の民団(在日本大韓民国居留民団)の前身である。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、3年後に停戦。その後、1955年に総連(在日朝鮮人総連合会)が設立された。総連は北朝鮮の在日同胞組織で、設立後ぐんぐん勢力を拡大し、民団系在日同胞も数多く組織に取り込んでいった。
朝鮮戦争後、思想に関係なくどさくさに紛れて僕の父も総連に加盟した。自分の家族を保護してくれるならイデオロギーは二の次だ。そのため本籍は北朝鮮になった。
父はその後、総連のために精力的に活動した。本業よりも総連の仕事を重視した。朝鮮学校の建設の時には設立委員長も努めた。僕が中学校の時、父は商工会の会長になった。本業の方も母に任せすべてが順調だった。しかし、その時、韓国から悲報が届いた。祖父が亡くなったのである。
すぐにでも駆け付けたい気持ちは山々だが、それを国籍が邪魔した。北朝鮮籍では韓国はおろか国外に出られないのだ.
方法はひとつだけある。籍を韓国籍に変えればいいのだ。でも父はこれを諦めた。籍を韓国にすれば民団に加入しなければならない。民団と総連は同民族なのにお互いに敵対心を持っている。父が南に籍を変えれば、総連の友人は裏切り者のレッテルを貼るだろう。これまでに築き上げてきたものがすべて水泡に帰してしまう。
しかし我慢にもやがて限界が訪れた。ゴールデンウィークに家に戻ると父は、韓国にいるお前の祖母ももう長くない、私はもう40年近くも母に会ってない、死ぬ前に一度でいいから会いたいと言った。
国籍を南に変えるには家族の籍も同時に変えないといけないのだそうだ。祖父の時の経緯を知ってる僕にとって、それを反対する理由はどこにもなかった。それに国籍が南に変わったところで失う物なんて何もない。逆に日本でこれから一生暮らしていくには国交のある韓国籍の方が何かと都合がいいくらいだ。
手続きは皆、父がやってくれた。
父は悩みに悩み抜いた結果、この結論を出したのだと思う。しかし1980年、父が41年ぶりに祖国の地を踏んで帰ってきた時、非難を浴びせる者は誰ひとりとしていなかった。父の友人の総連関係者も皆、同じような人生を歩んでいるのである。偶然にもこの時期を境にして、籍を南に変える人がどっと増えた。

哀史に終止符を
あくる日、僕は病院に行った。バリウムを初めて飲んだ。十二指腸潰瘍だった。僕は夏休みの直前に退院し、そのまま寮へは戻らず、バーでアルバイトした。
夏休みになり広島の同級生が戻ってきてパーティーが毎日のように繰りひろげられた。戻ってきたのは広島の同級生だけではなかった。金和弘も戻ってきたのだ。驚いた僕の顔を見て、金和弘は、「心配かけてごめん。神戸の親戚のところへ行ってたんだ。ずっと絵を描いてた」
とはにかみながら笑った。
「おまえ、「愛と悲しみのボレロ」見た?感動したよ、あれ、いい映画だ」
と、映画の話をひとしきり済ませると帰っていった。
それ以来、金和弘とは会っていない。
去年の9月に広島へ戻った時、誰かから金和弘は北朝鮮に帰国したという噂を聞いた。そんなことあるわけがない。彼は朝鮮学校では極めてまれな韓国籍だったんだ。北に帰った?ふざけるのもいい加減にしろ、むしろ北の体制を批判するような奴だったんだ。
翌日、僕は金和弘の家に電話をかけた。金の母は面倒臭そうにそれを肯定して、すぐに電話を切った。何が何だかわからなかった。
後で聞いた話では、彼は家庭内の問題児で、継母とうまくいっていなかったらしい。学校を辞めて家に帰った時、継母はすぐに和弘を神戸の親戚に預けた。そこでもいざこざを起こした彼は遂に国籍を変えて北朝鮮に送られることになった。
同じ日本で生まれ、同じが学校の同じ寮で暮らしたのに、彼は北朝鮮の国民となり僕は韓国の国民となった。両国は「停戦状態」にあるため、彼に会うにはどちらかが亡命するしかない。
現在彼の消息は不明である。出来ることならもう一度彼に会いたい。
誰かが言っていたが、朝鮮民族の近代史を文学的に表現すれば「家族の別離と再会の哀史」ということになるらしい。
このくだらない哀史に終止符を打つためにも朝鮮半島の統一を一日も早く望む。
祭くん



50CCのバイクが東京ではらくちん


自転車もいいけれど東京はでかい。坂もある。かたいって車に乗っている場合ではない。どこに行ったって渋滞。また駐車ない。それに比べると、50ccのバイクはとても便利。都内だったらどこへ行くのもあっという間。燃費だって1週間1000円もあれば大丈夫。電車やバスに乗るより安いと思うよ。
ひとつ言えばどんなバイクでもいいってわけじゃない。誰もが乗ってないバイクを手にいれて格好良く乗りたい。これだけはこだわりたい。ファションと同じように、いつもいっしょにいるバイクは自分の顔と同じ。ちょっと人と違うバイクに乗りたい。50ccでもパワーのあるヤツでふつうの顔して速いのがいい。そうすれば車の波に乗れるし、意外とスムース。
例えば、イタリアのバイクはとてもスタイリッシュで良くできている。国産車より多少値段は高いが差をつけるにはもってこい。近頃では代理店ができて、ちょっとした故障などにはすぐに対処してくれる。前みたいに待たなくてすむ。代理店がなかったときには、電球がひとつ切れただけでもたいへん苦労したものだ。
このところ気になるのは<キムコ>という台湾製のバイクだ。YAMAHAの下請け工場だった会社が出しているらしが、デザインが斬新で性能も抜群。値段もそこそこで調子いい。まだまだみんなが乗っていないので差がつくでしょ。
とにかく東京には50ccのバイクが一番いい。どこへ行くにも便利で速いし、ドアtoドアでらくちん。また雨の日を除けば、ちょっとぐらい寒くたって都内だったら問題ない。一度自分好みのバイクを手に入れたら。もう手離せない。
   御供

夕焼けを見るというこころがまえ


油井さんの夕焼けの写真は田舎っぽくない。とても都会的である。彼が初めて夕焼けに魅せられたのはいつかは知らないが?こんなことを同僚の編集者から聞いたことがある。
バリ島に行った時、ある島民が夕暮れになるとこぞって夕焼けをみに行き、その中の長老が今日の夕焼けは何点だったね。と点数をつけるらしい。夕焼けに点数をつけるのは少しつくり過ぎかもしれないが、村の人たちがみんな揃って、一瞬で消えてしまう夕焼けを見にいくという村があるのは面白いととても素晴らしい。ゆっくりと流れる時間の中で、自分たちだけの優雅な時間を持ち自然の営みの中に身を置いて、ゆったりと生きているような気がした。
油井さんは、それから時間ある限り、また旅するごとに、夕焼けの写真を撮り続けている。一瞬のうちに消えてしまう美しさと、人生の大切な時間を夕焼けを求めて旅することに費やして生きている。
一言では言えないのだが、こんなことをやり続けているんだと陰ながら、拍手をおくりたい。あくまでも一瞬で通り過ぎる夕焼けをひとつひとつ大切bに写真に撮らえている、数多くの写真に魅せられてやまない。
御供

中目黒のコンバイン


代官山の一部上々企業のショウルーム的な店よりも、暖かみのある元気な中目黒の<コンバイン>が私のお気に入りのカフェだ。古本屋が併設されているこの店はいろいろな顔を持つ、壁一面に並べられた本はとてもいいこだわりを持って集められたものだと一目瞭然。天井の高い広い空間には、気のきいた不揃いの椅子とテーブルはゆったりと座れるソファーもある。時間を忘れてしまいそうなほど居心地がいい。コーナーには本格的なDJブースがあり音も時間帯によって楽しませてくれる。
カフェとは本来情報交換し、友達をつくり、生活の中心となりえる空間でなくてはならないはずだ。時間の中に身を置いて大切なものを手にいれる。都会で生活していると忘れてしまいそうな人間と人間との触れあい。やさしさや思いやり。気のきいた本の背表紙の美しさの中に隠された人間の生き方。豊かな時間。そして生活のリズム。
今にはじまったことではないが、時代というものは街という形態を作り出す。それはそこに住む人間が作り出すものに他ならない。ボードレールの言葉を借りれば『ひとつの街の変わる速さは人の心も及ばない。』街というのは、思い出に取り付かれた人たちの心を置き去りにしつつ、常に新しい時代のキャンバスとして思わぬ速さで姿を変えていく。
2007年は代官山よりも中目黒が面白い。オノボリさんばかりの代官山よりもかわいい女の子がいる中目黒の方がいいに決まってる。お店もひとつひとつ独創的で遅くまでやっている。中目黒は企業がまだ真似できないマニュアルの外に生まれたばかりの街なのだ。お金では手に入らないセンスと奇麗な女心は今中目黒川に接近中であることは間違えない。
御供秀彦

雑誌拒否病


大学在学中から『ポパイ』という雑誌の編集の仕事をして来た。アレから30年、気づいてみたら浦島太郎になっていた。当時の『ポパイ』はかなりメリハリのきいたかぶれなインターナショナルな雑誌として影響力を持っていた。60万〜80万部という驚異的な発行部数。その雑誌では好きなことをやっていればよかった。セックスとゴルフのほかは?
ずっとリーバイスの501を履いていた。それなのにエドウィンがいいなんて書けない。
大学に行くよりは『ポパイ』編集部に行く方が楽しかったのでそうした。荷物運びの車の運転からはじまり、編集というエヂィターの世界へ足を踏み入れた。三ヶ月に一回海外旅行に行き、おこずかいまでもらえるなんていい仕事だ。と大学には8年も在籍した。
何故雑誌拒否症になったかといえば、やりたい雑誌がない。高い服を言いといい自分も着ない服を紹介する、こんなバカげたことがあるものか?田舎の読者を騙さなければいけない後ろめたさからだ。高くていいのは当たり前、これくらいの値段だったら紹介するに値する許せる。これが編集というものだと信じてた。
売れなければいけない。これじゃまるで広告じゃないか?雑誌拒否症になったのは、書きたいことが、書けなくなったと思いはじめた頃だ。全くの拒否症になってしまったのだから自分でも驚いた。雑誌が面白くて仕方なくてしようがなかったのだから。浦島太郎状態だ。
時代も変われば『ポパイ』も変わった。雑誌の編集という仕事が180度角度を変えてしまったのだ。こんな嘘をまるで本当のことのように脚色して書くなんてできない。自然と足が遠のいて、好きに書けるフリーペーパーばかりを書くようになっていた。
ここでひとつ言いたいのだが、職業のはじまりというのは?例えば八百屋という職業が生まれた時には、この上手い野菜をみんなに食べてもらいたいと八百屋になったのではないか?親が八百屋だからはまあいい。だが野菜が安く手に入るからというのでは困る。この新鮮で上手い野菜をみんなに食べて喜んでもらいたいと八百屋になったのではないか、八百屋になった確信が欠けている。編集者としての新鮮な上手い野菜というところが欠けている。自分が買いもしない高級ナショナルブランドを取り上げる。もう騙すのはイやだった。
ココに来て、考えが180度また変わった。だったら、新鮮で上手い野菜を食べて喜んでもらえる雑誌を創ろう。ちょっと角度を変えたら、また雑誌が好きになり雑誌がやりたくなった。
今私は夢中で雑誌の編集という仕事に恋してる。私の心の中は寝ても覚めても200パーセント雑誌の中にある。こうして雑誌を創っている時の自分は至福の中にいる。この恋は覚めそうもない。この恋は誰よりも強く美しい!
御供秀彦

2010/06/20

地球を救うためにやって来た、天使の翼を持ったメッセンジャー

WE DON’T BE AFRAID OF ISOLATION .WE WANNA BE HREE!

 80年代にハワイのノースシュアで大波に乗るサーファーを見たとき、彼らは宇宙から来たエイリアンに違いないと思った。そして、2001年、マンハッタンで車と車の間をスイスイと泳ぐように走るメッセンジャーを見たとき、ここにも四次元の扉を開けてやって来たエイリアンがいると思った。自分の命をかけてまでブレーキのない自転車に身をまかせて走るメッセジャー。彼等こそ、この地球を救うためにやって来たエンジェルなのではないだろうか。
21世紀のメッセンジャーとは?
マンハッタンを徘徊するメッセンジャーは2000人〜3000人といわれている。このメッセンジャーという職業がいつ生まれたかは定かではないが、時代が生んだ今もっとも注目したい職業であることは確かなことだ。
最近「メッセンジャー・スタイル」という写真集が発売されたのをご存知かな?この写真集を見ると驚かされるのだが。メッセンジャーこそ、この地球を救いにやって来たエイリアンに違いない。こう考えるのは私だけだろうか、、、、、?
彼らは自転車というもっとも原始的な乗り物に乗って、ブルックリンからマンハッタンまで15分もかからずに、車よりも速いスピードで突っ走る。まるで天使の翼を持っているかのように。メッセンジャーたちの体は鍛えられ、目は澄みわたり、とてもやさしい。社会から逃げるのではなく、社会とスレスレの接点を持って生きる。社会から逃げていたのではなにもはじまりはしないのだと。ビート世代が失敗した教えの中から学び、失敗を繰り返さないように生きている。メッセンジャーたちはもう目に見えない第三次世界大戦、それは壊れゆく地球、そう自然との戦いに無言で立ち向かっているかのようだ。「ルールなど持たないルールの中に自由を!」しっかりした自分流で生きているのだ。いつかメッセンジャーたちが通り過ぎていく空気に触れたき、どこからか囁かれた言葉を耳にした。「心ゆくまで走らせて、エネルギーを入れるのは旅の途上!」と。私たちの住む地球において、石油などの化石燃料を掘り起こすことへの「ノー」という絶対的な事実を理解したメッセンジャーたち。彼等のスタイルこそ『正しい未来型』なのだと思う。
ビートニクが、サーファーが、ヒッピーが、エコロジストが、グランジ・キッズが、スケーターが。夢見ることを決して止めないメッセンジャーたちにとって『約束の地』はいつも先の道を示す。メッセンジャーは黄金の精神に満ち溢れている。この壊れよく美しい惑星・地球で今日も心の中に祈りを込めて、希望の種を蒔き続けている。彼らはビートの詩をうたうかのように、ルールの外に自分の立脚点を置きたがるあまのじゃく。生まれたばかりの情報を自分だけの聖書のように伝え歩く。心と美をいつも磨きながら、時間という一番大切なものの中をゆっくりと泳いでいる。宇宙飛行士よりもアドベンチャー精神を持って生きている。錬金術により笑いと愛を持ち続ける。ムービー・スターよりもシャイで、ロック・スターよりも反抗し、こっそり自分の存在の中に価値を見つけ出している。超文明シティに住むものたちの中をスイスイと泳ぎまわるメッセンジャー。その叡智と願いはすべてをひとつの啓示のように都市生活者にメッセージ投げかけてやまない。そこにとどまるロボットのような操り人間たちに大いなる時間の先端を見ることを知らせる。次なる時間の社会、文明、芸術、文化、生活のあり方を問いかける。私たちもメッセンジャーたちに見習い。人生に賢く、社会に強く、愛に素直に、心に忠実に、手を掲げて生きていくことを学ぼう。
メッセンジャーの住む街。
そんなメッセンジャーたちの住む街、ウイリアムズバーグ。彼らはマンハッタンの隣町・ブルックリンのウイリアムズバーグに住んでいる。実際に来てみなければわからないかもしれないが、このウイリアムズバーグに流れる空気は優しい愛と創造のエネルギーに溢れている。すべてが磨かれていないダイヤモンドの原石のように。それはすべての今ある規制概念の外にルールを置き、そのルールの中に自由を求め、人間が人間らしく生きることを体現しているかのようだ。ボーダーを持たないアース・ピープルたちがどこからともなく集まって来て、ポエトリー・リーデイングをやり、ギターのコードで会話してジャムる。そして、光の覚醒の世界へと導いてくれる街。メッセンジャーたちの住む街、ブルックリン・ウイリアムズバーグ。
映画『イージー・ライダー』の中でジャック・ニコルソンが言った。「宇宙人は我々と同じ太陽系の連中だ。しかし、戦争も通過制度もない。指導者も必要としない。高度技術で日常の必要は競争なくして満たされるんだ。何故我々に姿を見せないんだ?地球には指導者がいる。情報の公表は彼ら次第だ。地球にいるエイリアンは全階級の人々に接している。人間が神のように制御できれば、人間は飛躍し進化できるんだ。現体制に与える衝撃を和らげよう」と。そのエイリアンがメッセンジャーなのかもしれない。情報が氾濫する時代の中で、全階層と接し、気づかないように地球をいい方向へ導いている。メッセンジャーたちの世界大会もあるらしい。先日の大会の打ち上げではストリッパーがたくさん来て盛り上がるらしい。とりあえず、楽しそうで目が離せない。
   御供[NEW WORLD NEWS EDOTORS]

2010/05/26

ゲストハウス


このところ東京周辺の住宅事情が変わりつつあるのをご存知だろうか?部屋を借りるのに保証人、敷金、礼金、不動産の手数料、そして前家賃と7万円の部屋を借りるのになんと42万円。
だがゲストハウスは、保証人ナシ、デポジットは預け金として3万円。それに一ヶ月の部屋代7万円、なんと10万円で住めるわけだ。しかもTV付き、冷蔵庫も付き、インターネット使用可能。台所、シャワー、ランドリーなどは共同が多いが、契約を済ませば、その日から住めるのだ。寝具はある。
もし、人生が旅だというのなら、このゲストハウスを利用しない手はない。ちょっと郊外に安価なゲストハウスが多いが、どうせなら都心をススメたい。
去年日本に訪れた旅行客は80万人だと言われているが、都心の外人用ゲストハウスは多種多様な人種が集まっていて情報交換の場所となっている。ここに住むことによっていろいろな事が考えられ、友達をつくってネットワークもできる。心を開いて飛び込んでいけば、人生のいい勉強になること間違いなしだ。
私も一、二ヶ月住んでみようかと考えている。外人用のフリーペーパーやインターネットで探せばいろいろなゲストハウスが選べるはずだ。飽き飽きしている毎日がそんな旅のような空間。ものが何もない空間。東京にいながらにして旅しているような毎日でひとつ長文にでも挑戦して書いてみようかと考えている。旅先のつもりで全神経を集中して、私は私の時間を発見してみようかと考えているわけだ。まるで東京が違った角度から見えるんじゃないかな。
   H.MITOMO

古着王国である日本


今や世界中から日本に集められてきた古着。とくにデニムや軍ものに関しては、東京原宿ほど世界中どこを探してもぬきにでる街はない。その品揃えと値段の安さに驚く。一時ビィンテージものが流行った時にはどうなるものかと、少し気味が悪かった。いまだに人気のあるもので高価なものはあるが、角度を変えて探せばいい時代のいい臭いのする服がたくさんある。
先日、ダウンジャケット¥3800。これはそんなに古くはないがエディ・バウァー社がモノ創りに真剣に取り組んでいた頃のダウンで芯のない良質のものを使用していた80年代もの。良く考えられた機能的なデザイン。またコーディロイのベスト¥500。決めは40年代のモノだろうプルオーバーの襟のやや大きめの赤のウール・シャツ、なんと¥780。現代ではこの素材は絶対に創ることができない。だってミシンがない。しっかり仕上げ、着やすさ暖かさといったら文句なし。色は真っ赤で前ジップ。私のお気に入りのアイテムの一着である。タグをみるとたぶん小さなテーラードの店であろうと思われるが、ポケットの位置。長袖で袖の先にはボタンがふたつ。なにしろ着ていて楽だし丈夫だし、やわらかくて暖かい。コンディションもいい。ほつれやダメージもない見つけもの。
どうみても日本は世界で一番の古着王国である。本場アメリカよりも数多くいろいろな古着がところ狭しと並べてある。見る人が見れば宝の山といったところだろう。
   御供秀彦

かぶれは30年前にはじまった


今年で<ビームス>は30周年を迎え、帝国ホテルの大広間で盛大なパーティをやった。ちょうど時期をおなじくして、アメ横に<MIURA&サンズ>後のシップスができ、ポパイの創刊も同じ頃だ。
今まで石津謙介氏の<VAN>というブランドの洋服を通して、アメリカ気分になっていたお洒落な若者たち。メンズクラブの別冊<TAKE IVY>という写真集で、リアルなアメリカのIVYリーグと呼ばれる大学の校内を歩く学生の写真を目の当たりにした。当時こんな写真はとても貴重で<TAKE IVY>を見本にアイビー・ファッションを勉強したものだ。
マドラス・チェックのボタンダウン・シャツにウインドブレーカー、そしてヒザ丈ぐらいのバミュウダー・ショーツ。足元はコインローファー<何かの時に親に電話をかけられるようにワンペニーを靴の先に入れておいたと聞いたことがある。またローファーとは『なまけ者』という意味があり、ヒモを使わずすっぽり履ける靴というものらしい。>キャンパスを歩くアイビー・リーグの学生は血スジも良く、勉学に励む学生たち。その格好にみなあこがれたものだ。脇に厚い本をかかえ、校舎から図書館へさっそうと歩く姿は私たち日本人にとってとても素敵に見えた。学生はみな母校のトレーナーを着て、スタジアム・ジャンバーは母校のマークが刺繍してあった。頭は7.3と呼ばれる短く清潔感のあるクルー・カット。そうJ.F・ケネディのあれである。
アイビーリーグにあこがれ、その学生でもないのにマーク入りのTシャツを着る日本の若者のなんと滑稽に見えたことだろう。しかしなんでもそうだが、ものまねからはじまり、やがてそれが本物を通りこすことだってある。あるんじゃないかな。
『ファッションとは一瞬であり、かぶれ<スタイル>とは一生つづくものである』
ビームスもシップスもポパイも、みなアメリカにかぶれた者たちの集合体と言っても過言ではない。
今でいうあの手のセレクトショップは、外国にまで買い付けに行って少量だが本物を扱う店である。もちろんそれをいち早くはじめたのはSTRATEGIAの油井氏の<スポーツ・トレイン>である。1972年、34年前にLLビーンなどのアウトドアものや服を扱っていたのだから驚くかぎりだ。
アイビー御用達の<ブルックス・ブラザース>や<J・プレス>は今や日本の企業の手によるものになってしまったが、オールド・スクールが流行り出した頃から、また気になるアイテムになっていることは確かだ。また団塊の世代と呼ばれる人たちは、まだまだネイビー・ブレザーにチノパンという人たちも多く変わらないのには頭が下がる。
アイビーにはいろいろな着こなしのルールがあり、お坊ちゃん風に決めないと似合わない。清潔感溢れ、また良家出身で頭がいいというのが条件なのだ。そこで『田舎ムラサキ、偽アイビー』という言葉がある。ムラサキは高貴な色で、品がともなわなければ似合わないという意味らしいが、そんな決めつけが当時は嬉しかった時代でもあったようだ。
話は少しずれたが、なにしろ30年前からこのようなかぶれていた。初めてひとりでスポーツ・カーに乗ったようであるようだ。
  御供秀彦<二ユー ワールド 二ュース エディターズ>

J・M・バスキアが死んだわけ?


ポップ・アートの旗手ジャン・ ミッシェル・ バスキアが亡くなって何年が経つだろう。黒人であるがためにモテハヤされたと言う人もいるが、彼は確かに天才画家だった。根っから絵を描くことが好きで描いて描いて描きまくって、駆け足で死んで逝った。
こんな話があるが、あなたは信じるかな?80年代私たちはNYで遊んでいた。イーストヴィレッジのジョン・ ルーリーのところにたくさんの悪たちが集まってDRUGSに時間を費やしていた。そこにはウィリアム・ ディフォー、マット・ ディロンの兄ポール・ ディロン、ジャム・ ジャーミッシュ他にもいろいろな連中が遊んでいた。マリファナ、コケイン、をメインに週末はカプセルのエクスタシー<MDMA>、スペシュルKなどでナイト・クラビング。
だが、DRUGSはエスカレートするものである。誰彼となくヘロイン(ブラウン・シュガー)を手に入れてきた。ジョンと私の数人はすぐにはまった。一日に二回〜三回はアベニューBまでピックアップに行ったものだ。
そんな時、バスキアは言った。『ヘロインをやるヤツは友だちじゃない』と、みんな必至でヤメようとした。イースト・ビィレッジまで行ってDRUGSTOREで小さな瓶に入ったコデインを買いソレで必至にヤメようとした。副作用で今度はコデインの中毒になってしまったほどだ。やっとぬけた頃、今度はバスキアがはまり出した。あんな事を言った手前、隠れてやっていた。ヘロインというものはひとりでやるとやばい。
彼はその頃、絵が売れ出してお金が手元にあった。いくらだって買う事ができる。コークのように見せかけたヘロイン<ナンバー5=これは白い粉>をやっていた。これは純度が高くとても危険なものだ。隠れてこんなものをやったら大変。だからあげくの果てはドープしてしまった。DRUGSのなかでもヘロインだけは別ものだ。ジャンキーというのはヘロインだけの中毒者のことを言うらしい。致死量があるのもコレだけで、あとは大丈夫ということだ。
なんでもそうだが、みんなで楽しんでやっているうちはいい。ひとりでやりだすとまずい。うそだと思ってもいい。ただ言えることは実際に起きた事件だという事実。私が言えるのは、80年代のクレイジーだった頃のニューヨークのこんなことを繰り返してほしくないだけだ。信じてほしい。御供

教育者にプライドを!


文部省の授業はつまらない。美しい地球のKEEPするには人間としての正しい教えが必要だ。教科書には書いてない。教育者である先生たちにプライドを持たせるべきだ。プライドとはアメリカの合理主義で言えばお金と名声だ。週休3日で月給100万円と名声を与えるという条件はどうだろう。
これから生まれてくる子供たちにいい教育が受けさせることができれば、社会は良くなり、美しい青い惑星地球はKEEPされる。
中途半端な先生が多すぎる。みんなが悪いと言うのではない。いやいや先生になる先生が多すぎるのだ。先生たちは休日の自分の時間のことと、酒を飲むことぐらいしか考えていない。
私の子供が小さい頃、こんなことがあった。息子は真剣に質問してきた。『ネエ、父さん血は汚いの』先生がそう言ったと言うのだ。子供だから聞き違いはすると思うが、そう理解してしまうような教え方は良くない。エイズなどの病気があって血は汚くなることもあるということなのだろう。私は息子に言った。『じゃあ、お前友だちが血を出していたら助けないのか?助けてもらいたくないのか』『助けるよ』そうだろう。先生にもう一度聞いてみなさい。『血は汚くなることもあるの?』と。
DRUGSの問題についてもそうだ。はやくリーガルにしてタバコや酒のように税金をとって、その利益を正しい教育に使う。正しいDRUGSの使い方を教えればもっとトラブルも減り、明るい飛びができるに違いない。
確かに文部省の教育はつまらない。新しいカリキュラムを組むべきだ。『人生は旅である』旅というものを授業に取り入れるべきだ。奨学金を出して好きなところへ行かせ、そこでの生活をレポートにまとめる。こんなカリキュラムはどうだろう。人生を豊かに楽しくする授業があったら、もう一度学生をやりたいものだ。そんな会話を仲のいい友だちと、旅の途上でよくしたものだ。御供

2010/04/23

ショートムービーの時代


オールドベニス通りをデニス・ホッパーとケニー・シャーフが口笛を吹きながら歩いていると、ロスの友人スコットから連絡がきた。これは何を意味するかというと映画と言う芸術のひとつの変革の時期が来たというスコットの意見は疑う余地もなく私も考えていたことだ。情報が反乱し、都市生活者の時間はどんどんと少なくなっている。たとえ映画館に行けたとしても二時間なりの時間をつくるということは不可能だ。10分〜20分の時間だったら可能だろう。ショートムービーくらいなら、なんとか観られる。だから劇場はオムニバスでこの手の映画を上映すればいい。劇場の大きな画面で観ることができる。時代は変わった。
 デニス・ホッパーの創る映画はいずれも長過ぎて劇場と合わず、ハリウッドと大きなトラブルを巻き起こしてきたことは知られる事実だ。例えば<キャッチ・ファィアー><カラーズ>そして<ラスト・ムービー>上げれば切りがない。ポップ・アーチィストのケニーはサンダンスの映画祭の審査員を努め、デニスとは仲が良い事で知られる。何のドラッグをやっていたかはわからないが?時代が求める映画のあり方について意気投合し、口笛を吹きながら歩いていたに違いない。
 都会人たちよ!ショートムービーの時間ぐらいだったら、劇場に行って全視全霊をこめてひとつのことを学ぶ。全神経を集中させて学びとる何かがほしい。これがショートムービーの醍醐味だ。後の映画は家に帰って時間のある時に観ればいい。
 映画人デニス・ホッパーとはそれほどまでに偉大な存在なのだ。彼がショートムービーを創りサンダンス映画祭に出品する日は近そうだ。私もショートムービーをコツコツと創っている。もし受賞の件でケニーに聞かれたら、賞は年配のデニス・ホッパーに譲りたい。そう言える日が来るのが楽しみだ。ちょっとだけ頑張ってシナリオでも書いておこう。
    御供秀彦  14/6/2

時を刻む写真


 時がもの凄い勢いで逃げて行く。一瞬のうちに街の風景はどんどんと移り変わっていく。時に取り残されてしまうのがイヤだったら、シャッターを押そう。何の変てつのない日常の中で、小さなクサビのように心に中に入って来る一枚の写真。耐えられないほど頭の中に入り込んでいく。うなされるほどに目に焼き付いて離れない一枚の写真。
 それは光と影の白日夢に過ぎないかもしれない。
 しかし、一瞬の輝きに心踊らされる自分がそこにいると感じる時こそ生きているという実感はなく、至福への入り口である。なんと、なんと、楽しい地球の中。
 デジタルの新時代に突入している現代に、あえて『一枚入魂』の銀塩コンパクト・アナログカメラで撮りたい。次から次へと発売されるデジタルカメラを片目で見る。携帯電話すらハイスパックなカメラを搭載している時代。デジタルカメラはもうまさに飽和状態。
 だがフィルムで撮影された写真の色味、質感、プリントの雰囲気は何度見ても魅力的。アナログ特有の難しい取っ付きにくい操作方法に挑戦し、その扱いを自分のものとした時に押された一回のシャッター音。その時に撮られた時代を刻んだ素晴らしい写真。
 真を写す、写真もあれば。
 新を写す、写真もある。
 どれだけデジタル化が進んでもシャッターを押すのが人間であれば、写真はどこまでも人間の五感でシュートするものだ。
 ライカが軍用カメラとして発明した35ミリフィルムを使ったカメラ1920年。ズームレンズを使うこともあれば、使わないときもある。高感度のフィルムの時もあれば、使わない時もある。それぞれの技術で焦点を合わせ、人間の力によって写し出される写真ほど心を打つものはない。
 人間の五感が、撃たれたい、撃ち抜かれたい。
人間の餓えた五感がそう叫んでいる時代だ。    
   H.MITOMO 14/6/2

2010/04/19

癒しの時代


 21世紀の大都会は何が起こってもおかしくない。モノはなんでの手に入るが、どこに向かっているのかわからない。時間の先端がどう変わっていくのか?自分の今の感情すらわからない。見えない。都会の暮しはますます殺伐とした味気ないものになっていく。贅沢に慣れた都会生活者は、何を目的に生きて行くのかさえ見えてない。体の不調におびえはじめている。目の前のことに腹をたて、やさしさや思いやりのかけらさえもおきざりにして生きている。どう生きるべきか?人間が人間らしく生きるってどういうことなんだろう。
 そう考えている自分がいる。この自分を救ってくれるのは旅じゃないだろうか?旅をする。旅の途上でどんなことだってできるし、会いたい人にも会える。そしていろいろなものが目に飛び込んでくる。新しいことをキャッチしてそのマニュアルを持ち帰る。旅の途上で心をオープンにして見た新しいことは、心を込めてやっている本当のものだったらなんでもOKだ。とすればたくさんのものがポケットいっぱいになる。それを型にする。21世紀に今見えるものは「癒し」のGOODSに違いない。やわらかい精神というものを癒すもの。この型のない癒しのGOODSを探し出し創る。これこそ時代が求めているものだ。
 例えば「ローズ・ウォーター」。ブルガリアで探したダマスクローズは、一万種類以上あるバラの原種として珍重されている。ダマスクローズはリラックス効果に加え、バラには殺菌・抗菌作用がある。古くから発熱・頭痛・歯痛・口内炎・婦人病・消化器疾患その他の種々の疾患の治療に処方された。また解毒剤などの防臭剤などとして使われてきた。このブルガリアから届いたダマスクローズを使用した「ローズウォーター」こそ、癒しGOODSとしてもってこい。バラの香りが鼻から脳にはたらきかけて自律神経を調整する。お肌を奇麗にする。潤いを与えてくれる。何でも手に入る世の中、都会生活者にもっとも必要なものはこんな癒しのGOODSだ。それも極上なものがいい。世界中を旅をしてこんないろいろなものに出会い持ち帰る。すると次なる旅の糧となる。ひとつ極上なものを探しに旅に出よう。
  御供 <ニュー・ワールド・ニュース・エディターズ>

2010/04/17

旅はPEACEのはじまり


ふたりのダグラスが教えてくれたスモール・ザ・ワールド。それはボクをニンマリさせてくれたPEACEの入り口。出会いとは考えればやって来るということだ。赤い糸に引かれてニューメキシコ・タオスへと旅をした。日本での友人ダグラス・ブラックは茨城東那珂川の上流でセラミックに熱するコンセプチュアル・アーチィスト。大学で(コロンバス・オブ・アート)ガラスを学んだ。5年前に日本に来た。なんとなく知り合った。そう、渋谷の屋台がハジマリだった。去年の春に彼から聞いたもうひとりのダグラスがニューメキシコで英国スミソニアン美術館のテイク・ケアをしているという雑誌の切り抜き。インディアンの血を持つ彼の顔は印象的で、ボクの目から焼き付いて離れなかった。(peace force)の連中、ジュン、ゲン、神山そしてカズヤとタオスに向かった。Mr.フリーダムを探しにね。
 誘われて入ったダグラス・コーフィン[お父さんの友人]のアトリエには、まるでネバーランドのような子供たちをワクワクさせるドラッグがたくさんある。ダグラスの創った大きなオブジェの入口には、ラッキー・ストライクのパッケージとダイス。ワインをいただき、彼の集めたピースなものにうなずいた。撮影までとことんつき合ってもらう。住処にまでおじゃまして、まだ会って何時間もしないのに一生の友人のような顔をしている自分にビックリ。ダグラスの家の庭には、千年いや二千年の歴史を感じさせるキャニオンが広がる。右と左のビッグ・メーサは異なった天気さえ見ることができる。とてつもない大自然。同じ人間なのにスケールが違う。でも人間のやさしさは同じものだった。6本のワインとアメリカでの成功の印のシガーをくゆらせた時間。心の平和は時間を忘れた時間にやって来る。思いっきり考えさせられた地球の中。
 Peace forceの宇宙的な撮影はニューメキシコで行った。ネイティブ・インディアンのリザベーション近くにある摩訶不思議な場所。ここは宇宙に向かってキノコのような巨大なサテライトが数えることができないくらい開いている。砂漠と地球の丸みがわかるところ。一分は60秒、一時間は3600秒。一日は晴れ、くもり、雨、雪、そして発泡スチロールのような巨大でソルトなひょう。そしてまた晴れ。ルーシー・イン・ザ・スカイ・ダイアモンドに飛ばされることなくして、天気に飛ばされた。小さなピンクのカフェへ、新しい予感。嬉しい挑戦。このワクワクこそが最高のドラッグと感じさせる旅の醍醐味。 
 Peace forceは旅のドアを開けたようだ。
  御供秀彦 <ニュー・ワールド・二ユース・エディターズ>
  13/9/25