2011/06/24

免許



近頃いろいろな免許を取ることが流行している。
飛行機やヘリコプター。
今日免許の書き換えに行った。
朝早くからたくさんの人が会場に集まっていた。
こんなところでしかお目に欠かれない人ばかり。
とてもおかしな場所だ。
1月生まれの人が多いわけだが知り合いには会わない。
東京という大都会は不思議なもので、
会わなくなると会わないものだ。
でも日本の免許を持っている。
5年に一度日本人だと考えさせられる。
 御供 2002/1/6

小さい頃から



いつも夢に見ていた「あんこ屋さん」
甘いものが大好きだから、
大人になったらきっとなろうと思っていた。
美味しくてたくさんあんこが入っている。
小さいながらも秘かに考えていた。
小さい頃から甘いものが大好きでいつもいつも思っていた。
あんこの店をやりたいな。
あんこをたくさんつくってみんなによろこんでもらう。
そしたら自分もたくさん食べられるから。
そんなことを考えていた。
あんこの店は今も心の中にある。
夢なんだから、
そろそろ実現したいものだ。
こころまで甘くなるあんこだよ。
 御供 2001/3/22

時代



神と悪魔が共同経営する実験的な時代、
無数の落とし穴が天国の階段の前に口を開いている。
何が起こるかなんて誰もわからない。
時代は手放しで理解できるほどおしとよしじゃない。
すぐに通り過ぎてしまうから時代なのかも知れない。
世界ではいろいろなことが起きている。
都会の街の中を吹き抜ける風の中に、
ある自分好みの美味しい空気が吸うことができたらいいのにな。
みんなで美味しい空気をたくさん吸って、
楽しいことだけやって自分らしく生きる。
街を歩いている人たちが何に向かっているなんて、
想像するだけで時代がなくなってしまうよ。
いろいろなものが飽和状態にある時代。
その中からチョイスして組み合わせなくてはいけない。
このマルボロにはこのライター。
これからの時代はエディティングさ。
モノをつくらないで組み合わせる。
気づかなくちゃ。
 御供 2001/3/24

朝が来ると



大都会の街は24時間ノンストップで動きつづけてる。
だから朝が来るという感覚は目覚めた時と考えられる。
都市生活社の行動は昼と夜が逆になってしまったかのようだ。
特に真昼の太陽が照りつける季節、
あまりの日中の暑さに行動を起こせないでいる。
昼間眠り涼しくなった夕方から行動をはじめる。
だから朝が来るという感覚は夕方というわけだ。
クーラーの室外機の暑さと紫外線に、
真夏の太陽の下では思うように動きまわることさえできない。
起きるのが太陽が西に傾く夕方になるというわけ。
夕暮れがブルーから暗いブルーに移り出す頃、
「朝が来る」
街に出かけ友人と会い。
ここ何年かの夏は猛暑がつづき熱帯夜が毎日のようにつづく。
だから都市生活社の朝が来るという行為を変えているようだ。
まだ都市に人口が集中されていなかった時代には、
「朝が来る」という感覚はこんな風ではなかったはずだ。
昼を寝て過ごし、
夜になると行動をはじめる現代社会の自由人たちが増えている。
これらの都市生活社は精神に不安を感じている。
自然の摂理から反してバランスを崩しているのだから。
肉体よりも精神に異常をもちはじめる。
太陽の持つ光の明るさを心にも見失い、
人工的な光の中に身をおいて時間をさまよい歩く。
多くの人とすれ違っても挨拶ひとつ交わすことがない。
ただコンピューターとコンビニを行ったり来たりの時間の経過。
「朝が来る」という自然現象からも遠ざかり、
自分のいる位置さえわからない。
こんな東京の朝。
夜光虫のように生活していたら狂った東京になってしまう。
一日の24時間のリズムを元に戻して生活しよう。
規則正しい一日の朝、昼、夜。
精神の異常をなおさなければいけない。
 御供 2000/7/26

詩人として



イマジスト的考え方から思いついて、
アメリカ会話体のリズムに従って短いラインの詩を書いた。
ロマンチィックなインスピレーションで吟遊詩人を追求して書く。
何も隠さず勇敢に書きたい。
自分の心の奥底から出てくる魔術的なラインで書く。
自分の人生を要約して他の少ない黄金の耳に聞こえるように書く。
野性的な言葉使い。
長い散文的なコーラス・ラインのもの。
詩として組み立てて行く。
  御供

詩人へ



詩人は一種の芸術的な狂乱状態のうちに創作をおこなっていると了解される。
好むと好まざるにかかわらず、
そういった状態の中で書かれるのだ。
創作活動の舞台裏は形の整っていない思考ややっととらえた真意に、
迷いながら悩むことが見てとれる。
全体の見通しがつくまでにひらめいた言葉が、
そのまま無数の観念のひらめきのままある。
完全に熟していかないまま書き付けられることもある。
手に負えないものとして残るものもあるかもしれない。
空想はその詩人の溢れるばかりの感性の中に表れるもの。
注意深く選択されたその言葉は人々に対するものよりも、
詩人の中に存在する本能に似た言葉によって書かれる。
インスピレーションは詩作理論の中心にくる概念そのものだ。
詩人の活動力は自分でもどうしようもない大きな力によってもたらされている。
信じがたいほど短期間で書き上げられる。
詩人はもはやひとりの個人ではなくて、
インスピレーションの体現者である。
自然が持つ救済力ではなく、
詩人は一行一行創作のために口述する。
自分の体や心の中にわずかでも迷信のかけらを残して持っている。
自分は単なる化身。
代弁者であって圧倒的な力の媒体となっているにすぎない。
聞くだけで深く求めなくてもわかってしまうのだ。
受け入れるだけで何によって与えられたかは問わない。
ある思考が必然性を持ってためらいなく稲妻のようにひらめく。
詩人には選択の余地などあろうはずがない。
その時の恍惚状態のまま滝のような溢れかえる意識の連続によって、
書きつづけられる。
この行為はなされたものにだけ与えられるものである。
光に満ちあふれたものに帯びている。
そのリズム感に溢れたひとつの本能によるリズムを察知することが不可欠だ。
すべては知らないうちに絶対的に自由に出来上がる。
つまりは何もかもが自然に書かれるべきして書かれる。
「真実」の言葉とはインスピレーションを通して、
完全に発狂しないかぎり獲得できない。
この予言者のような最後に下す不変の判定こそが必要だ。
過去何世紀にわたって詩において何か新しいことをやってのけたものなど、
誰もいない。
詩人は新しくも古くもない。
詩人はいつの時代も立ち上がる。
時代に要求されていると気づいたとき、
詩人は詩人になる。
詩人たちへ、
詩人に今こそなるときだ。
 御供 2000/7/24