自分の思考すらカタチづけられてしまいそうなシステム。
はっきり破壊してみる必要性に、
ある時つくづく気づく。
それはビート詩と出会った瞬間から、
止むに止まらぬ必然へとなっていく。
これは理論とか転向とかいうものではなく、
強い詩的なあらわれでしかない。
意志が必然的に亡命をはからせたといえるかもしれない。
根っこをとやかく言っているのではない。
もともと詩の場などというものは、
最初からはっきりしたものがない。
詩は詩でしかないのだ。
どういうものとも共同体をもたないものが詩であったのか。
こうした詩人の閉じ込められた自己規制のようなものを嫌い、
それを取り払うことからはじめる。
誰よりも語っていたのは実は無意味な意味だったのだ。
あらゆるジャンルのものや様式を総動員して、
自分の思うとおり勝手に好きなように先へ先へと行けばいいのだ。
先とはこれまでと違うところへ行くという意志である。
意欲ではない。
この先に何かはっきりとした詩の見通しがあるという保証などない。
創造的な破壊を繰り返すだけ。
けれどある種、
無茶苦茶で盲目的なまるで暗い青春のようなものがなければいけない。
ドライビング・フォースが詩人になければ、
詩は決して意味を持ってこない。
これこそ創造的破壊というものである。
フリーダムなインプロヴィゼーションと引き換えに、
真のクリエイティブな詩ができる。
見えてこない、実現もしない。
こうしてあらためてビート詩を読むと、
言葉だけでは説明できない。
表現している意味やコミュニケーションがはっきりあることがわかる。
なおも一生懸命に語り合おうと努力している世界があることが伝わってくる。
言ってしまえば文字など、
所詮文字以外の何ものでもないということ。
こちらのつもりどおりになかなか相手に伝わらないのが文字であり言葉だ。
それは逆に言えば、
文字や言葉の誤解や誤読こそがコミュニケーションだ。
これが詩だ。
詩は詩なのだと言い切りたいのだ。
詩を文字とかデザインだという統一性を持ったジャンルとして、
最初から考えていけないのだ。
詩的正当性はどこで証明できるのか、
詩には何も伝えるものなどない。
詩人の絵空事にすぎないのかもしれない。
御供 2000/12/6
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