1955年2月24日、
スティーブン・ポール・ジョブズは生まれました。彼はポール・ジョブズとその妻クララの養子と なり、サンフランシスコの45th Avenueに住むこととなりました。彼の父は「立派な行い」で知られる人物で、債権回収の仕事に就く前は沿岸警備隊のエンジン室の機関士でした。彼は自 動車の改造もして収入を得ていました。
スティーブは非常に活発な子供でした。子供の頃、彼はアリ退治用の薬品を飲んでしまい、病院にかつぎこまれたこ ともあります。養子になったことについては、彼は後年次のように言っています。「私の性格や特徴がどこからきたものだろうか? とみなさんが興味を抱くの はごく自然なことです」と。「でも全般に、私は環境による影響を重視しています。どう育ったかとか、価値観、だいたいの世界観というのは、自分の成長して きた過程で生まれてくるものだと思います。」
1963年
スティーブはうっすらと自信をにじませつつ、小学校低学年時代の自分についてこう振り返っています。「小学校3年生のときの私たちを見てほしかったな。」「先生なんてこてんぱんだった。」
1965年
10歳にして、スティーブのエレクトロニクスへの興味は両親の目にも明らかになりつつありました。彼はヘアピンを壁の電気ソケットに突っ込んで感電してしまったこともあります。父ポールは債権回収の仕事の規模を広げるため、家族を連れてパロアルトに引越しました。そこはシリコンバレーとして知られる、成長著しいエリアでした。
シリコンバレーで少年期を迎えることとなったスティーブは、その後どのように成長していったのでしょうか? 続きます!
Brian Lam(原文/miho)
1970~1971年(其の一)
ティーンエイジャーに突入したジョブズ君、もうすっかりグレまくりの青春時代を送ります。酒とロックとマリファナに溺れる日々...
すみません。ウソです。いくらなんでも、いきなりそこまで壊れてはいませんでした。上の画像も米GIZMODO編集チームによる悪いアメリカンジョークでございます。
1970~1971年(其の二)
気を取り直しまして、われらがジョブズの少年時代を振り返ってみることにいたしましょう。そう、決して忘れてはならない、あの後に一緒にアップルを創業するスティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズ、2人の偉大なるスティーブの運命的な出会いがあったのは、この学生時代のことだったんですよね!
どうやら最初の出会いは、ジョブズの親友が「あのさ、とってもいい奴がいるんだよ」って紹介して引き合わせてくれたことに始まるみたいです。でも、もう出会った瞬間から、まるで幼い頃からの親しい友人のごとく、一気に何をするにも意気投合する強力な絆で結ばれちゃったそうですよ。ボブ・ディラン、ビートルズ、そしていわゆるガジェットの電子機器という共通の趣味が見事にマッチした2人は、この年頃の少年たちらしく、かなりヤバいイタズラにも興じていました。まぁ、それなりに不良だったってことでしょうかね...
そんな若かりし出会った頃の2人ですが、すでに互いに心から尊敬し合えるものがあったみたいですよ。
ボクは電子機器をいじりまくるのが大好きで、その知識はだれにも負けないものを持っているって自負していたんですけど、ウォズは初めて自分よりも詳しい物知りでしたね。彼のエレクトロニクスについての知識は尋常じゃなかったですから...
ウォズとの出会いを振り返りながら、こんなふうにジョブズは評していますよ。
ボクはそんなに人付き合いが上手ではないんだけど、その点、ジョブズはスゴいよね。仲間を信頼するとか、相手の奥の奥を見抜く能力に長けているっていうのかな、そんな不思議な魅力を持っているんだよ。
一方、ウォズはジョブズを、最初に出会った時からこう語っては一目置いてたんだとか。う~ん、なんとも言えないオーラを放ってアップルの快進撃を率いてきたジョブズのマジックとも呼ぶべき人柄の片鱗が、すでにこの時から顕著だったことがうかがい知れる貴重なエピソードでもありますよね!
1970~1971年(其の三)
ちなみにやっぱりウォズとジョブズは、かなりの悪ダチだったことを示すエピソードもご紹介しておきましょう。男性誌の「Esquire」で公衆電話のイタズラ記事を読んだ2人は、なんとその天才的にマニアックな知識を駆使して、勝手に公衆電話につないでコードをクラックし、無料で長距離通話だってかけまくれるというヤバすぎるキット「Blue Box」なる代物を完成させちゃいましたよ。
ただ、自分たちで作り上げて悪用するにとどまらず、ここにも後のジョブズのアップルでの成功を垣間見させる展開といたしまして、まだ高校生だったにもかかわらず、いきなりキャンパスの片隅に出かけては怪しげなブースを設け、学生たちを相手にヤバヤバな違法キットのBlue Boxを売りさばき始めます! ちなみに販売価格は当時の150ドルと、決して安い値段ではありませんでしたよ。1台のBlue Boxを組み上げるために要したパーツ代などの原価コストは40ドルだったそうで、これはもううまくいけば荒稼ぎですよね~
幸か不幸か、ある時、ウォズとジョブズは乗っていた自動車が故障してしまって、もうウンともスンとも言わず、道路の脇で立ち往生してしまいました。 そして、このBlue Boxで目論んだイタズラ商売にも終止符が打たれることになりますよ。というのも、例によって無料通話をかけて救援を仰ごうと公衆電話に駆け寄ってBlue Boxをつなぎおおせたところで、なななんと真横にパトカーがやって来ちゃったんですよね。
警察:これは君たちの車かい?
ジョブズ:あっ、はい、そうなんです。突然故障して動かなくなってしまいまして...
警察:で、いまは何をしているところだね?
ウォズ:あっ、はい、困ってしまったので電話を...(慌てたジョブズに口を押さえられる)
ジョブズ:あっ、いえ、その、ちょっと気分を盛り上げるために音楽でもと思いましてですねぇ。
一体こいつらは公衆電話に群がって何をしているんだと不審に思って近づいてきた警察官にBlue Boxを見咎められて危機一髪の2人でしたが、そこはジョブズが機転を利かせて、これは別に怪しい機械でもなんでもなくて、音楽プレイヤーみたいなものだって言ってのけては、なんとかその場をしのいだんだそうです。う~ん、なかなかこの2人は十代の頃から凄まじいコンビを組んでいたってことですなぁ。
1972年
高校を卒業したジョブズは、晴れてオレゴン州のリード大学へと進学し、花のカレッジライフをスタートするのですが、このキャンパス生活はそんなに長くは続きませんでしたよ。わずか1学期で単位を落としまくって、いわゆる留年状態になってしまったのです...
そもそも最初からジョブズは大学に進学することに興味などまったくなかったのですが、自分の生みの親があまりにも熱心に勧めるため、仕方なく進学を決意したそうですね。ただ、どうやら大学側がジョブズの偉大な才能という殻を受け入れるには小さすぎたのかもしれません。
ところで、この頃、ウォズとジョブズは一緒に生活費を稼ぐため、なんとショッピングモールの中で不思議の国のアリスの衣装をかぶっては時給3ドルでアルバイトに励んでいたなんてトンでも情報がありますよ。もしやジョブズの魅せるドラマティックな演出は、こうやって着ぐるみの中で体得したんでしょうかね?
1973年
ちなみに単位を落としてしまって進級できなかったジョブズですが、1年半ほどはキャンパスに出入りしつつ、とりわけカリグラフィーのクラスに熱心に出席しては書道とタイポグラフィーへの理解を深めたと伝えられていますよ。そして、知る人ぞ知る、これこそがあの美しいMacのフォントデザインに後に活かされることになっていくんですよね!
1974年
さて、すっかりカレッジライフには見切りをつけたジョブズは、カリフォルニアへと舞い戻って、これまた突然のこととして、ゲーム業界の雄であったAtariへの就職を願い出ますよ。逸話では、まともに事前のアポイントなんてあったもんじゃなく、いきなりAtariの本社にフラッと現われたかと思うと、開口一番に「俺には才能がある。だから雇ってくれ。首を縦に振ってくれるまでは帰らない」とその場に居座り、速攻で採用内定をゲットしただなんて伝えられていますね。結構もうこの若い頃からワンマンなタイプだったのかも~
ただ、就職後には知人のダンさんと連れ立って、何を思い立ったのか、スピリチュアルな旅に出たいと語りつつ、インドを目指してしまいましたよ。ある山の上で修行僧のグルに気に入られたジョブズは、ついに頭を丸めて坊主になり、これまた一緒にインドに旅した知人のダンさんも坊主頭になってしまいますよ。まぁ、ダンさんが髪の毛を剃り落とした本当の理由は、ノミでいっぱいの不潔さに耐え切れなくなったからなんだそうですけどね。
このインド放浪の旅は人生観をさらに大きく変えるものとなり、荒修行の最中にはLSDなどの麻薬にも手を出すほどの厳しい経験だったとジョブズ自身が告白しているみたいです。いやいや、このままインドで一生を終えることになっていたとしても不思議ではなかったのかもしれませんよね...
ただ、数か月に及んだ修行生活の途中で、これまたいきなり思い立ったジョブズはカリフォルニアへと帰国し、Atariに坊主頭で出勤してきては皆を驚かせていますよ。ところで、余談ですけど、ジョブズに付き合わされてインドまで連れて来られた知人のダンさんは、なんとインドを去ったジョブズに置いてけぼりを食らい、その後は独りでインドを放浪してさまよい続けたんたとか。なんだか俺流ジョブズもゴーイングマイウェイにやってくれますよね!
再びAtariに戻ってきたジョブズは、後に「Break-Out」というブロック崩しゲーム機として知られることになる特別な開発プロジェクトに着手するようにとの辞令を受けます。「このゲームマシンが、もしも40個未満のチップで完成したら、君には特別な報酬をやるよ」と約束されたジョブズは、親友のウォズに頼み込んで超コンパクト設計に仕上げてもらいましたよ。社会人になっても、なかなか2人の絆は強かったみたいですね。
ただし、人のいいウォズとは対照的に、かなりジョブズにはずる賢い一面もあるみたいで、この時に特別なプロジェクトの成功報酬としてAtariから受け取ったボーナスを、手伝ってくれたウォズと半々で山分けしたかのように見せかけつつ、実はウォズには一部しか与えず、大半をジョブズがポッケにないないしちゃっていたなんてことも明かされていますよ。う~ん、でもちょっとこれには感心できませんかね...
後に10年が経過してから事実を知ることになったウォズのショックといえば、それはまた親友に裏切られたことを知って、その時の悲しみと衝撃は尋常ではなかったと の話もあるようですよ。きっともしウォズが、こんなジョブズの仕打ちをもっと早くに知り得ていれば、一緒に仲良くアップルを創業するなんてこともなかった のかもしれませんよね。まぁ、ただし、この件に関しては、いまだにジョブズは、そのようなことをした覚えはないって絶対に認めてないみたいですけどね~
1975年
いよいよ偉大なるアップルの歴史の幕開けが近づいてきましたよ。この頃、ウォズは簡単な回路基盤でテレビに出力するコンピューターの製作に成功し、Homebrew Computer Clubでデモンストレーションを実施しています。当時、まだジョブズはAtariでの勤務を続けており、一方のウォズはHewlett-Packard(HP)に勤務していましたよ。
1976年(其の一)
じゃじゃ~ん、ついにここに記念すべきアップルの誕生です! この年の4月1日に共同出資して正式に創業されま したよ。もっとも設立資金といたしましては、ウォズが所有していたHPの電卓コンピューターを一挙に65台の大人売りで520ドル、ジョブズが愛車に所有 していたレッドとホワイトのツートンカラーのフォルクスワーゲン製のバスを1500ドル(実際には売り渡した瞬間にエンジンが火を噴いたので半額しかもら えなかったらしい...もしや不良品を売りつけたの?)で売り払って出し合ってスタートした、いまとなっては非常に小さな小さな始まりでしかありませんでしたけどね。
アップルが最初に売り出したのは、先日も超貴重なオークション販売が実施されたばかりの「Apple I」コンピューターでした。パーソナルコンピューターの輝かしい誕生ですね。当初の注文は50台でしたが、この年が終わるまでには150台が出荷されたと伝えられています。すべてジョブズの直筆サイン入りで、ジョブズ自らがセールスマンとして必死に売り歩いたというエピソードまで残されているみたいですね...
1976年(其の二)
一方、早くも次世代モデルの「Apple II」の開発にも着手したウォズとジョブズは、この新モデルは回路基盤からダイレクトにOSをロードし、まさにまたイチから大幅な設計変更を加えたモデルチェンジを実施することで意見の一致を見ました。そして、この頃に最初の出資者として、インテルの社員だったマイク・マークラさんからの資金援助を取り付けることに成功しましたよ。Apple Iの素晴らしい売れ行きとApple IIの将来性を固く信じたマークラさんは、この時すでに「絶対に5年以内にFortune 500のトップ企業に名を連ねる会社へとアップルを育ててみせたい」との大きな夢を語っています。その先見の明も見事な称賛に値しますよね!
1977年
年が変わって、1977年の1月3日にマークラさんの自宅に集まった3人は、アップル創業から1年を待たずして「Apple Computer」の法人化を実施する書類にサインし、ウォズ、ジョブズ、マークラさんの3人で株式を持ち合うことになりましたよ。
順風満帆のスタートを切ってきたアップルですけど、この年にジョブズにとっては早くも暗雲が垂れ込める変化も生じ始めています。それはNational Semiconductorからの引き抜きでアップルの社長に抜擢されたマイク・スコットさんの登場ですね。社長への就任直後から、ジョブズとスコット社長との折り合いの悪さは明らかになり始めますよ。
たとえば、スコット社長の人事プランですと、ナンバーワンの社員はウォズであり、あくまでもジョブズはナンバーツーに過ぎないと明確に示されてしまいました。でも、このランク付けにはジョブズは非常なる不快感を覚えたそうですね。おまけに長髪ルックの風貌がボサボサでガサツと冴えなかったジョブズに対して、なにかとスコット社長は外見上の嫌味を言い始めるんですよね~
少しずつ雲行きが怪しくなってしまっていましたが、この頃にジョブズはアップルのロゴマークの確立に腐心しています。いまとなっては懐かしいリンゴのロゴにレインボーカラーというアップルデザインですけど、小さくても一瞬で見分けがつき、なおかつたくさんのカラーを用いるロゴマークなので真似されにくいというメリットが重視されたそうですよ。
この年の4月にアメリカ西海岸で開催された「West Coast Computer Faire」におきまして、新作のApple IIは最優秀デザインのパーソナルコンピューターとして高評価を集めます。わずか62個のチップしか用いない最小構成デザインが、ジョブズのアイディアで配置にも美しさを追求し、すべてのネジが底部に埋め込まれて外からは見えない仕上がりが注目されたみたいですよ。拡張スロットまで標準装備されていましたからね。
この頃、ジョブズの人生面で大きな変化も生じています。それは付き合っていたガールフレンドのクリス・アンさんが妊娠したんですよね。ただ、ジョブズは父親として認知されるのを拒否し、一方のクリス・アンさんは絶対にこの子を堕ろすようなことはしないと主張して激しく言い争ったため、2人は別れることになってしまいました...
1978年
ジョブズはあくまでも父親にはならないと言い張ったそうですが、この年の5月17日にオレゴン州で娘のリサさんが誕生していますよ。依然として実子としての認知は頑なに拒んだジョブズでしたが、名前はジョブズがつけて、しかもApple IIの次なる新世代モデルの開発プロジェクトも「Lisa」と命名されます。同時に現在でもアップル本社があるカリフォルニア州クパチーノに会社を移転していますよ。
この年の社内ハロウィーン仮想パーティーではイエス・キリストに扮したというジョブズ。さらなるアップルの飛躍を担う「Apple III」の誕生を夢見ながら年を越していきますが、もしかするとこの時からすでにジョブズの受難の半生が始まっていたのかもしれません。いざ、ジョブズ半生記の特別編は第3部へと続いていきます。どうぞ乞うご期待!
Brian Lam(米版/湯木進悟)
さて、3回目はMatintosh誕生秘話や忍び寄るIBMの影の時期です。ジョブズ伝説の光と闇が世界規模で拡大する、非常にドラマチックな数年間でございます。
1979年
ジョブズは「Lisa」プロジェクトをスタートさせます。プロジェクト名の由来はまあ彼のまだ認知していない娘 からとったものなのでしょうが、社内では「Local Integrated Software Architecture(ローカルで統合されたソフトウェア・アーキテクチャ)」の頭文字とされており、ジョークで「Let's Invent Some Acronym(何の頭文字かを思いつこう)」の略だとかも言われていたとか。
Lisaはゼロックスのパロアルト研究所での研究からインスパイアされた、ウィンドウとマウスからなるグラフィカル・ユーザーインターフェースを持ったコンピューターを指向していました。伝え聞くところによると、同研究所でこのシステムを紹介されたジョブズは、興奮のあまり辺りを飛び回りながら「なぜ君たちはこれを製品化しないんだ!? こんな素晴らしい発明はない! まさに革命だ!」と叫んだとか。ローリング・ストーンズ誌でも、ジョブズは当時を振り返って、こう述べています。「まともにモノを考えられる人間なら、全てのコンピューターがいつかこのように操作するようになる、ということに異は唱えないと思うね」。
また、ジョブズはこの年、Los Gatosに家を買いました。飾りつけなどはほとんどなく、極力シンプルで、マックスフィールド・パリッシュの絵画(予断ですが僕も画集持ってます)と、マットレスとクッションがいくつかがあるだけだったと伝えられています。
メルセデスのクーペのオーナーとしても知られる彼が、最初に同車を買ったのがこの年でもあります。この時は、同時にBMWのバイクも購入しています。
同年、彼は髪をこざっぱりと切り、ときおりスーツを着て、ちょっとビジネス界の風習にも従うようになります。
アップルとしては、この年、初のワープロソフト「AppleWriter」と、それに最適化された初のプリンター「Silenttype」をリリースしました。
ジョブズは実父確定検査を受け、94.97%の確率でLisaの父親であることが証明されました。しかし彼は認知を拒否し、母親のクリス・アンは生活保護生活を余儀なくされます。裁判所はこの年、ジョブズに養育費を払うよう命令を出しました。
(写真は1982年にDiana Walkerによって撮影されたもの。)
1980年
アップルが株式公開を果たし、ジョブズは初日で2億1700万円の財産を手にしました。
彼のインド旅行のパートナーでもあり、アップルの従業員ナンバー11番でもあるダンさんはストック・オプションを受け取っていません。噂によると、 ジョブズが彼にオプションを渡さなかったのは、彼がクリス・アンの悩みを聞いてあげていて、そのことに不信感を抱いていたからだと言われています。他の創 業メンバーも、ストック・オプションは受け取っていないか、受け取っていたとしてもごくわずかでした。一方、アップルの共同設立者であるスティーブ・ウォ ズニアックは、「ウォズプラン」と称して、彼の所有する株式の1/3を提供し、従業員に対して1人2000株まで買えるようにしていました。
1980年代
ジョブズはこんな口ひげを蓄えていたこともあります。1980年代のどこだったから特定できないのですが...
(私立探偵マグナムが初めて放映されたのが1980年の12月。参考までに。)
1981年
ジョブズは社長のマイク・スコットによって、Lisaプロジェクトから外されます。独断専行な振る舞いと彼の戦術の一貫性のなさが原因だと言われて います。また同年、スコットがCEO職を退き、アップルを去ります。株的にはともかく、仕事内容には不満があったようです。暫定的に創業メンバーのマーク ラが社長、ジョブズは会長となりました。
Lisaプロジェクトから離れたジョブズは、当時ジェフ・ラスキンが率いていたMacintoshプロジェクトに突如参画します。なお「Macintosh」は、McIntoshという品種のリンゴのタイプミスをもじった名前で、電源を入れればすぐに使える1000ドルのコンピューターというか電化製品として企画された製品です。
ジョブズ参画後、ラスキンとジョブズは対立するようになり、最終的にはラスキンはアップルを去ることになります。ジョブズはラスキンに、電話帳を机に叩きつけ、Macintoshをこの大きさ以上にするなと怒鳴ったというエピソードが残されています。
Apple IIと異なり、Macintoshは拡張スロットを持たず、Burrell Smithという社員(元はエンジニアではなくサービス部門のスタッフ)が素晴らしい創造性を発揮して、Macintoshの美しい基盤の大部分を開発しました。
またMacintoshは、別の意味でも注目に値するプロジェクトでもあります。当時アップルではプロジェクト名に自分と関係する女性の名前をつけ るのが常でしたが、ラスキンによって、はじめてそれが破られたプロジェクトでもあるからです。なおMacintoshプロジェクトは当初は「Annie」 という女性名で呼ばれていたようです。
それに先駆け1979年、ジョブズはラスキンに、コストを度外視して製品のスペックを考えてみるようにと言っており、彼は冗談のつもりで、思いつく 限りの常軌を逸した機能のリストをまとめたとのことです。そのとき書かれた機能のリストは、数年後に多くのコンピューターに影響を与え、または実装される ことになります。ジョブズ式のやり方の有効性を示すエピソードです。
Mactintoshチームは「現実歪曲空間」だったと、当時のスタッフは振り返っています。例えばとあるエンジニアがジョブズにアイディアを語ると、彼はそのアイディアをくだらないと否定し、数週間後にわざとか無意識になのか、それをジョブズ自身のアイディアとして披露する、といった具合です。
ジョブズはMacintoshのデザインを、フォルクス・ワーゲンよりポルシェのようであれと説きました(当時彼はポルシェ928に載っていまし た)。彼はMacintoshのプロトタイプのデザインを評する際、まるで車のそれを評するかのように「角ばりすぎている。もっとカーヴィに、この2面の 交差角はもっと大きく。このベゼルの大きさはあまり好きじゃないな」などなどと語ったといいます。
1981年その2
ジョブズはビル・ゲイツにMacintoshのデモを見せ、ゲイツはMacintosh用のソフトウェアを開発 することを約束します。ゲイツとジョブズはコンピューターについての未来の見解が異なっていました。ゲイツはコンピューターをビジネス用のツールとしてみ ており、一方ジョブズは普通の人々に利便性を与えるものと見ていました。2人を主人公にしたドラマ『Pirates of Silicon Valley』では、ゲイツはこのMacintoshのデモを見てWindows開発を決意したということになっています。
アップルのエンジニアは、ゲイツにLisaを見せることを長く拒んでいたし、このデモのときも、何を見せるかについては非常にセンシティブになっていまし た。Macintoshプロジェクトの主要メンバーの1人であり、このデモのときのプレゼンターでもあったアンディ・ハーツフェルドは、機能を紹介しよう としすぎた際、ジョブズに「Shut up!」と怒鳴られ下げさせられたと言われています。
さて一方、この年、Apple IIの成功から端を発したIBMの初代コンピューターが発表されます。アップルはこのリリースを、ウォール・ストリート・ジャーナルに「Welcome IBM, Seriously(ようこそIBM、いやほんとに)」という広告で迎え、また、ジョブズは「コンピューターの暗黒時代がこれから20年は続くだろう、IBMを市場から追い出してやるよ。こっちも準備はできてるんだ」とのコメントを出しました。結果は...みなさんご存知の通りです。
Brian Lam(米版/いちる)
1981年(其の三)
こちら、ジョブズがIBMに「こんにちは」してる写真。
1982年
ジョブズはビル・ゲイツとマイクロソフトに、アップルのため以外には、マウスを使用するソフトウェアに取り組まないと約束しましたが、実際のところ は、競合するオペレーティング・システムの開発が全く許されていないわけでは無かったので、ゲイツがWindowsを開発している頃、Macソフトウェア をマイクロソフトは開発中でした。
この時、Macチームが使用していたビルは、午後5時30分にセキュリティーシステムが稼働するようになっていたんですけど、これって夕食後に仕事 に戻る傾向があったプログラマー達にとっては早すぎる時間でした。そんな日々が続いた結果、ジョブズは「誰かそのセキュリティーシステムを破壊してく れ!」 と叫んだそうです。 すると、アンディ・ハーツフェルドがアラームにドライバーを突っ込みアラームを破壊...。その後、警備員が現れましたが ジョブズは、ちゃんと破壊に対する全ての責任をとったそうです。 もちろん、大ごとにはならなかったんですけどね。
そんな風に仕事環境にイライラしつつ働いていたジョブズですが、この頃歌手のジョーン・バエズとデートしていました。ちなみに、バエズの元カレは ジョブズが大好きなボブ・ディラン。同じ人に魅力を感じる2人の感性は相性が良かっのかも!? そして、この年、ジョブズはニューヨークにセントラルパー クが見渡せるサン・レモアパートを購入し、建築家のI.M.ペイにリフォームさせます。でも、ジョブズがその部屋に入居することは無く、最終的には何十年 も経ってからU2のボノに売り渡したそうです。
1983年
Macintoshプロジェクトのキャプテンであるジョブズは、彼らの使っていた建物の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせました。
この年、タイム誌のマイケル・モーリッツ(Google委員会の一員だった投資家)が、ジョブズのダークサイドを人々に暴露しはじめました。彼は、 ウォズの「Apple IIの設計に、彼はたいして貢献していなかった」という主張や、匿名情報源からの中傷を沢山引用するような記事を書き続けました。 それを受け、ジョブズ は彼の新年のプランを中止し、記事について考えたそうです。バッシングされるのはヘコみますからね...。
その頃、ジョブズが嫌なやつだからこんな事するんだ! と人々から思われていたエピソードを一つご紹介しましょう。 人々はジョブズがオフィスにい るか? いないか?すぐに見分ける事ができたんです。なぜかというと、会社にいる時、ジョブズは青いメルセデスをビルの前にある身体の不自由な人用の駐車 場に駐車していたから。 そんなジョブズに対して、人々は、彼が嫌なやつだからんな事をするんだと思っていたそうです。でも、デビッド・ブネル曰く、不満 を抱いているLisaかApple IIの従業員が鍵で車に傷をつけるかもしれないから、それを回避するために、そこに駐車していたんだとか。いろんな理由があるかもしれませんが、こういう 行動とバッシング記事の相乗効果はすごいですから、気をつけないとですよね...。
ジョブズは「海軍にはいるより、海賊であれ」という精神で、Lisa・プロジェクトから多くのスタッフを引き抜き、技術を盗みました。 特にバレ ル・スミスがLisaと同じプロセッサMoto68000をMacに入れる方法をあみだした後からは激しくなったそうです。また、ジョブズは、Lisaプ ロジェクトのコンピューターとのコード互換性を拒否しました。 最終的に、Lisaの製品は何年も後にオリジナルのプロジェクト費の5倍になる1万ドルで 販売しましたが、IBMのマシンは3000ドルですから、競争に勝つことは難しいことでした。
その後、ジョブズは、ジョン・スカリーをペプシからヘッドハンティングし、アップルのCEOに就任させました。口説き文句は有名ですが、「このまま 一生砂糖水を売りつづけたい? それとも世界を変えたい?」でした。 ジョブズ以外の人達は、スカリーの科学技術の知識不足が難点だと考えていたふしもあったそうですが、ジョブズは、こ の事が彼を良きボスになるよう導く良いチャンスだと捕えていたそうです。 そして、ジョブズとスカリーは強力なパートナーシップでアップルの経営を押し進 めていきました。
一方、ゲイツはWindowsを公開し、1984年の終わりまでにIBMのマシンの90%以上がWindowsを走らせるようになるだろうと主張。
1984年
この年、ジョブズは広告代理店Chiat/Dayのクリエイティブ・ディレクタリー・クロウに出会います。そして、ジョブズはリドリー・スコットが監督した有名なくスーパーボウルの伝説のCM「1984」を世に送り出しました。
当時、ジョブズらはそのCMが気に入っていなかったうえに、スーパーボウル放送中の広告スペースは、あまりにコストがかかりすぎるので、そのCM枠 を売り戻ししようとしましたが、売れませんでした。 そしてCMを流すことに。 そのCMは、オーウェルの小説みたいな反理想郷の世界をIBMが運営して いることをほのめかし、新しく来るMacがその世界を打ち砕くといったかんじのものでした。 結果的に、スーパーボウルの放送中にこのCMが流れると、何 これ?と人々の関心を集め、賞まで受賞しました。 この事についてジョブズは、「運は自然力です。」と語ったそうです。
そして1月24日、ついに初代Macが発売されました! ジョブズは水玉模様の蝶ネクタイをし、ボブディランのThe Times They Are A-Changinの歌詞を暗唱してからMacをお披露目しました後、ジョブズは音声合成プログラムを使って、「こんにちは。私はマッキントッシュです」 と挨拶し、最後には、「私の父親同然の男性を紹介することを誇りに思います。スティーブ・ジョブズ」という言葉で締めくくりました。
ただ、Apple IIの後継機種となるべくApple IIIは、Apple IIとの互換性はまったくなく、サード・パーティのソフトもほとんど無かったので、Apple IIIの活性化に全力を注いではみたものの、思うような実績が残すことが出来なかったので、廃止となりました。 ジョブズは、Apple IIIとサヨナラした同じ日にApple IIのコンパクトバージョンとなるApple IIcを発表しました。 ちなみに、サンフランシスコでの式典「Apple II Forever」というイベントはマグニチュード6.2の地震で中断されたそうです。
1984年(其の二)
最初、Macの売れ行きはいい感じでしたが、次第に低迷してしまいました。理由は競争力のある機能性が不足していたから。 プログラマー達は、絶え 間なく、プログラムのためにディスクを交換したり、ファイルを保存しなくてはいけない事を「ディスク交換オリンピック」なんて冗談にしたりしていました。
一方、マイクロソフトのペイント、ワード、ライトの3つのプログラムは、使い勝手のいい、まれなアプリケーションでした。
人々は自分たちが何を欲しがっているのか? 市場調査をしないジョブズに不満を持ち始めました。 そんな中、ジョブズは再びLisaチームでの影響力を手に入れ、新たに結成されたMac/Lisaチームで、自分にもチームの皆にもストイックに開発を進めていました。
その頃、ジョブズのMac開発チームは、自分たちが「1週間あたり90時間働き、それを愛している」というモットーのうえに、奴隷のように身を粉に して働いているのに、Lisaチームのスタッフや下級技術者と比べ、賃金が極めて低いことに気づいたんです。彼らはジョブズに騙されたと感じていました が、士気が下がるという問題はボーナスで軽減することができたそうです。
この年、ジョブズは5万ドルかけて新しいCMを打つことにしました。ルーズヴェルト大統領と戦争をテーマにして「1944」のパロディ「1944」 を流し、IBMコンピュータに戦争をしかけました。 ジョブズはフォーチュン誌で、「IBMは私たちを地球から滅亡させたがっている」と語ったりもしてい たそうです。
ちなみに、この頃のジョブズの恋人はマヤ・リンというアーティストでした。そして、この年ジョブズは、あのジャックリング邸を購入したんです。 1926年に、銅鉱山の大物実業家ダニエル・ジャックリングのために、有名な建築家ジョージ・ワシントン・スミスによって建てられたジャックリング邸で す。購入したものの、ジョブズが住んだのは10年ほどだったそうです。ジョブズって彼女ができるたびに高い家を買うん傾向があるのかも!?
色んな意味でギラギラしたジョブズの生き方がどうなっていくのか? ジョブズの半生記は、まだまだ続きます。
- Brian Lam(原文/junjun )
さてさて、ジョブズ先生の休養にあたって、その偉大なる半生を振り返ろうと組まれた、特別大長編企画【ジョブズ半生期】!
今回はその第5部(1985年-1987年)です。
たった3年? と思われる読者様もいらっしゃるかと思いますが、ジョブズ先生にとっては新会社を設立したり、自分の遺伝子に思いを馳せたり、非常に盛り沢山な3年間です。
1985(part1)
この年、ジョブズとウォズは当時の大統領、ロナルド・レーガンから第1回アメリカ国家技術賞(技術分野ではアメリカ合衆国で最高の栄誉とされている賞)をもらいます。
受賞の前か後なのかははっきりしませんが、とにかく受賞したころ、ジョブズはウォズがAppleを退職していたことを知ります。かつての親友なのに退職したことすら知らなかったんですね。
ウォズはAppleを退職後、カルフォルニア大学バークレー校にロッキー・クラークという偽名を使って入学し、CS/EE(電子工学)の学位を取得します。
1985年はジョブズにとって而立の年。サン・フランシスコで開かれた、ジョブズ30才の誕生パーティーではThe First Lady of Jazzとも称されるエラ・フィッツジェラルドにショーを行ってもらっています。
また抜群のプロポーションと金髪で知られる、スーパモデルBo Derekを訪ねて、Macユーザーになるように口説きますが、彼女はMacにもジョブズにも関心を向けず。。。
他には、たまたま見たビデオによって、ヨーロッパに核兵器の照準をあてるためにAppleⅡが使われていることを知り、プレイボーイ誌でその事を快く思っていないとコメントしたりしています。
それから、この年で一番重要な事件が!
まず、Apple社内でのジョブズの立場が危うくなり始めます。
Appleの役員らはMacの売り上げ台数予想が実際と大きく異なっていることでジョブズの責任を追求し、ジョブズの経営スタイルへの不満を表し始めます。
ジョブズのマーケティングの補佐をしているMike MurrayはAppleがかかえている問題をメモにまとめ、その多くの原因がジョブズにあることを示しました。
この後ジョブズは、「現実歪曲空間(reality distortion field)」と称されている、知らず知らず人々を巻き込み、感動させてしまう能力を以前ほど発揮できなくなってしまいます。
役員会とスカリーはジョブズからMacグループでの権限を取り上げること、Lisaのプロダクトラインを中止することを決定します。
ジョブズは、中国への出張中にスカリーを追い出そうと計画しますが、副社長の告げ口によってスカリーにばれてしまいます。
計画を知ったスカリーがジョブズに問いただすと、
「君はAppleにとって害となっていると思う。この会社を経営するのに相応しくない。」とジョブズは開き直ります。
これを受けてスカリーは翌朝、緊急会議を開き、
「会社を経営しているのは僕だ、スティーブ! 会社のために君に出て行ってもらいたい。今すぐ!」と発言し、
会議に集まった役員に、ジョブズかスカリーか、を選ばせました。
その間、ジョブズは終始発言しなかったそうです。
ジョブズは、自分がペプシから引き抜いてきたスカリーのリーダーシップを再確認し、それを賞賛しましたが、その一方で、なんとかスカリーに打撃を与えようともしたようです。
そんなこんなで、1985年5月28日火曜夜、ジョブズは会長職以外の全ての権限を失うことになりました。
友人らはジョブズが自殺するのではないかと心配したようです。
1985 Part 2
Appleから事実上必要とされなくなったジョブズは次のステップについて思いを巡らせます。
NASAに行ってスペースシャトルに乗る? 政界に進出する? バイオテクノロジーを勉強する?
結果、ジョブズは、自分の情熱が革新的な製品を作ることに対して向けられていることを再確信するに至り、新たなベンチャー企業を立ち上げることにします。
そこでAppleにベンチャー企業を立ち上げることと、会長職から退く意思を伝えます。Appleは始め、彼を会長職に留め、彼の新しい会社に投資することを検討しましたが、ジョブズが技術者を引き抜いていることを知り、ジョブズには完全に退職してもらうことにしました。
ジョブズの退職は実にドラマチックに演出されました。時刻は夕暮れ時。ジョブズがMike Murrayに退職届を渡す様子をプレスが見守ります。この時ジョブズはプレスに向けて、こんな風に発言しています。
もしAppleがコンピューターをただの日用品と考え、ロマンスを失い、人類が生み出した発明品の中でもコンピューター は信じられないくらい偉大であるということを忘れてしまったのなら、自分にとってAppleとはもう失われてしまったということだ。だがもし、まだこんな 風な考えを持っている人がAppleにいるなら、僕の理念がまだAppleに残されていると感じることができるだろう。たとえ、僕自身が何万マイルも遠く にいたとしても。
退職すると、ジョブズは、Appleの経営に信頼がおけないとして、当時持っていたApple株400万枚以上(1100万ドル以上)を売りに出します。この時、1枚だけ売らずに手元に残しておきますが、その理由は、感傷からだとも、4半期報告を受けるためとも言われています。
この年マイクロソフトがWindows 1.0をリリースします。これは初期のMac OS GUIs を真似して作られています。(まぁMac OS GUIsもXerox GUIsを真似してるんですけどね。)
スカリーは、ビル・ゲイツにMacの技術をWindowsで使用することを許可したのです。そして代わりに、WIndows版Excelの販売を延期してもらい、Appleがこの市場参入するための足場をつくる時間を稼ぎました。
ジョブズは新会社をNeXTと名付けます。
最初のプロジェクトは高等教育のためのワークステーションでした。
これはジョブズのバイオテクノロジーに関する興味に端を発しており、学生が買えるほど安く、しかし高度な研究のシミュレーションに耐えうるほどパワフルであることが求められました。
ビジネスウィーク紙の記事から、NeXTの前広告担当者Andrea Cunninghamのコメントを紹介します。
ジョブズがやりたかったことの1つは、世間にAppleはただのラッキーだったわけじゃないってことを分かってもらうこと。それからスカリーは彼を追い出すべきではなかったと証明することだ。
またこの年、AppleはLisaの生産を中止します。
1986
NeXTのブランドを確立するのためのデザインをPaul Rand(IBMのロゴを作ったデザイナー)に依頼します。報酬は10万ドル。上の画像はその一環でデザインされたNeXTのロゴです。
このころ、娘のLisa(当時7才)との関係を築き始めます。また、所有していたApple株を売り終わります。
それから、ルーカスフィルムのコンピューターグラフィック部門であるPixarをたった1000万ドルで買収します。しかも内500万ドルはPixarの運営に使われるという条件で!
ジョブズがPixarを買ってくれたおかげで、ルーカスもスター・ウォーズの株を売らずに離婚費用を用立てることができたそうです。
好条件に見えた買収ですが、ジョブズは、「1986年にPixarにどれだけ維持費がかかるか知っていたら、Pixarを買わなかったよ。」とコメントしています。
1987
ロス・ペロー(米実業家)がジョブズをテレビで知り、投資したいと電話をかけてきますが、ジョブズは冷静を装うため、わざと1週間待ってから返事をします。
ペローは2千万ドル出資して、NeXTの株16%の保有者となります。
それからジョブズは1985-1987のどこかで、彼の生みの親の詳細について知りました。そして、妹がいる事も。
母、Joanne Carole Schieble、スピーチセラピスト。
父、Abdulfattah Jandali、シリア人の政治学者。
妹、Mona Simpson、現在小説家として活躍中。
そして、Mona は著書「Anywhere But Here」の出版パーティーにジョブズを連れていき、パーティーの出席者に2人は兄妹だと告げます。
Monaの小説「A Regular Guy」に登場するメインキャラクターのモデルはジョブズだという噂もあります。
(ちなみにMonaの夫Richard Appelは「ザ・シンプソンズ」の脚本家で、マージ・シンプソンの母親の名はMonaから付けられているとか。)
この何年か前に、彼の性格は産みの親や遺伝子からではなく、どんな体験をしたかから作られていると主張していたジョブズにとって、自分とMonaがとても似ていると感じることは非常に衝撃的なことでした。
Steve Lohrはニューヨーク・タイムズ誌にこう書いています。
妹との交流は、ジョブズに運命を冷静にとらえる感覚のようなのものをもたらした。彼は切迫した状況を全てコントロールすることに固執しなくなり、自然に訪れる結果にもっと信頼をおくようになった。つまり、遺伝子とは妙なもの、ということだ。
会社関連では、NeXTのロボット工場をフリーモントに建設します。これは賃金を抑えるためではなく、回路をより正確にはんだづけできるレーザーを使い、品質を向上させるためだそうです。
いやぁ、濃厚な3年間ですねー。
自分で設立した会社Appleを、自分が引き抜いてきたスカリーに追い出され、それに屈するものかと、新会社を設立し、他の会社を買収したり、投資家を見 つけたり、工場を建設したり。しかもその間に、今まで認めていなかった娘との交流や、前には存在すら知らなかった実の妹の交流も始めています。
波瀾万丈なジョブズ。これからどうなるんでしょう?第6部もお楽しみに!
Brian Lam(米版/mio)
3度目の病養に入ったジョブズの快気を願う7回連続の長編特別企画【ジョブズ半生記】。第6部(1988-1996年)はジョブズのエグザイル期。天皇放逐後のアップルは首をコロコロ挿げ替え、まるで太陽を失った大地のように凋落していきます。
1988年
WindowsがMac OSと不気味なほどソックリに。AppleはWindowsでMacの技術を使う昔の契約が勝手にWindows 1.0に延期されてるわい、と、GUIの無断コピーでMicrosoftを訴えます。
一方ジョブズ。パーティーで、発売もされないうちからNeXTコンピュータをスペイン国王フアン・カルロス1世に売りつけます。相変わらずです。
10月にはシンフォニーホールでNeXTコンピュータ(愛称Cube)を発表し、そのステレオサウンド処理をお披露目。マシンはマグネシウム筐体 で、イーサネット専用ポート、インライングラフィックスとメール内オーディオ装備(当時としては珍しかった)だったのですが、いかんせん画面が17インチ のモノクロ...その頃には大学もほとんどのところがカラーを欲しがってたし、NeXTの光磁気ディスクはちょいと遅過ぎ&高過ぎました...。インダス トリアルデザインはあの著名なフロッグデザイン創始者ハルトムット・エスリンガーに任せたんですが、それも全部彼の一存で決めて良しという条件付きの契約 だったんですね。
広報は「ジョブズもちょいと丸くなって自覚症状が芽生えてきた」とマスコミに喧伝します。が、ある元社員に言わせると現実にはまるで正反対だったようですよ。「みんなひとり1票ずつ投票すると、スティーブはひとりで70票投票してきたもんだ」
そんなスティーブではありますが前と変わったところも確かにありました。その良い例が、普通では考えられない給与体系を組んだこと。NeXTでは 90年代初期まで、なんと社員の給与は勤続年数に応じて5万ドルか7万5000ドルの2段階しかなかったんです! 支払日は月1回、向こう4週間分の小切 手を渡すかたちで行います。新たに入社した上級管理職には会社株の2%が支払われました。まさに黎明期アップルの報酬・恩賞のカオスとは天地ほども違う平 等主義!
大学はお得意様なんですが、各大学から重鎮を招いてのディナーではスタッフがジョブズ様用ベジタリアン料理を用意するのをサボったため、部屋に集まった全員のメインディッシュをキャンセルし、潜在顧客を全員腹ペコのまま放置する一幕もございました。
1989年
ビートルズのレコード会社「Apple Corp」がAppleを「同じ名前つけるなコラ」と提訴します。ジョブズは大のビートルズ・ファン。自分の事業モデルはビートルズのそれと同じ、パーツ を合わせるとそれに関わった一人ひとりを足すよりグレイトになるんだよ、と発言したこともあるほどなのに...片思いとは辛いもの...。
GUI著作権侵害でMicrosoftを訴えたAppleをゼロックスがGUI著作権侵害で提訴。三つ巴の戦いに。
NeXTキューブ、カスタマー向けに出荷開始。出荷日の遅れについて質問が及んでもジョブズは、出荷が遅れてもこのコンピュータはまだ時代の5年先を行ってるんだぜい、と余裕シャクシャクです。
1989年、氷河期Appleは最後のLisaコンピュータ2700台をユタ州ローガンのゴミ処理場にこっそり埋めます。売れ残った在庫にかかる税金が帳消しになるように...。
Mac Portable発売。
1990年
ジョブズが講演に訪れたスタンフォード大学MBAで、在学生ローレン・パウエル(Laurene Powell)さんと出会ったのは、ちょうどこの頃のこと。
電話番号の交換まで漕ぎ着けた早業ジョブズですが、あいにくその晩はビジネスのディナーで予定が塞がっていました...。
「駐車場に戻って車にキーを挿し込んで、ふと思った。これが地上最後の夜なら会議なんて出るか? この子といたいんじゃないか? 僕は駐車場を一目散に駆け、彼女を晩ご飯に誘っていた。彼女はYESと言ってくれた。それから一緒に街まで歩き、以来ずっと離れずにいる」
1991-1992年
PowerBook発売。
3月18日、ヨセミテ国立公園のアワニーホテルで、グルと仰ぐ日本人禅僧・乙川弘文(Kobun Chino)さん立会いのもとスティーヴン・ジョブズ(36)とローレン・パウエル(27)ご両人の挙式がささやかに執り行なわれます。
9月長男誕生。ジョブズ父子2代の母校(リード大学)に因み、Reed Paulと命名。
この頃からリサも父ジョブズの家に入り、ティーンエイジの多感な時期はずっと一緒に暮らします。
1993年
Newton Message Pad発売。
Macintosh TV発売。
6月、役員会はジョン・スカリーを解任し、Apple欧州支社トップのマイケル・スピンドラーを新CEOに据えます。
たった5万台売っただけでNeXTはハードウェア事業から撤退、ソフトウェア専業に。NeXTSTEP OSをIntel 486にポートする作業を進めます。
1994年
PowerMac 6100/60発売。
QuickTake Camera発売。
1995年
ハワイで家族ぐるみの休暇中、親友のオラクルCEOラリー・エリソンと海岸を散策しながら、Appleの敵対的乗っ取りの勝算に話が及びます。投資 金として300万ドル用意し、ジョブズの王位復権を図るというプランで、「かなりがなり実行に近いところまで行った」のですが、 「結局反対を決めたのはスティーブだった」とエリソンは後日NYタイムズに話しています。
ジョブズはこう言ったそうです。「自分はやっぱり敵対的に乗っ取るタイプの男じゃない。彼らの方から会社に戻ってくれと請われたら話は別だけどね」
ピクサーが映画『トイ・ストーリー(Toy Story)』リリース。ジョブズが所有するピクサー株80%の価値は一挙6億ドルに。
巷ではMacのクローンが乱立。
スティーブ&ローレン・パウエル夫妻の第2子Erin Seinna誕生、今度は女の子。
Microsoft対Apple訴訟がついに決着。結果はApple敗訴(対ゼロックスの方はApple勝訴)。
1996年
「悲しい事実だが...Microsoftが作るのは...まったく三流な製品ばかりだ」と、インタビューで毒づくジョブズ(写真上)。
フォーチュン誌からの取材では、こんな意味深な発言もしています。「実言うと僕には、Appleを救う一案がある。Appleにとって完璧な製品、完璧な戦略だという以上のことは言えない。だけどこの僕の言うことなんてあそこの連中は誰も耳を貸さないだろうよ」
マイケル・スピンドラーに代わってギル・アメリオがApple CEOに就任。たちまち同社株価は過去12年で最低の水準まで下落します。
AppleのOSも古くなり後継が必要に。AppleではBeOSを買収する案、果てはMicrosoftからWindows NTをライセンス供与してもらう可能性まで出たんですが、結局白羽の矢を立てたのはNeXTとNeXTSTEP OSで、これがiPhone、Mac全製品で使う今のOS XのUI、アーキテクチャー、マルチタスキング機能などにモロに影響を与えてゆきます。
AppleはNeXTを4億3000万ドルで買収し、150万ドル分のアップル株をジョブズに渡す意向を発表、ジョブズを顧問としてAppleに呼び戻します。
ジョブズは傍目にも分かるほど、管理スタイルが丸くなっていました。ピクサー元社員はこう言っています。「 前はこっちがふた言三言も口を開くと、『はいはいわかった、だけど俺はこう思うのさ』とビシャッと相手の口を遮っていたものですが、そういうのはなくなり ました。今の彼はもっと人の話をよく聞きますね。もっとリラックスしていて、もっと大人かな」。こんな風に変わったのも人をもっと信頼できるようになった お陰だとジョブズは話しています。「今はもっと人を信用できる」
こうしてジョブズは再びAppleの土を踏みます。本社に足を踏み入れるのは1985年以来初めて。かつて石もて楽園を追われたジョブズはこの時、別人のように生まれ変わっていました。
ピクサー本社正門前のりんご並木(撮影:訳者)
株が紙屑同然となったアップル...救済に戻ったジョブズの「一案」とは? 次回最終回をお楽しみに!
Brian Lam(原文/satomi)
1997年
「ギルはジョブズにめちゃくちゃやられるだろうね。ギルの鼓膜は破れるよ。」とは、元Apple社員(匿名)がジョブズ復帰について米ニューヨーカー誌にコメントしたもの。このコメント通り、ジョブズはさっさとギル・アメリオを追い出し自身が暫定CEOに就任する。
ジョブズのコメント
「Appleを救うために必要なのはコスト削減ではない。必要なのはこの窮地に立たされた現状を革新することだ。」
ジョブズはDellのコンピューターのことを面白みのないただのベージュの箱と揶揄。マイケル・デルはこれに対して、自分がAppleの経営者なら株主にきちんと配当を渡す事ができるのに、と応戦。
ジョナサン・アイブが入社。
Appleのデザイン新時代の幕開け。
アイブ初のプロジェクト、DVDプレイヤー・TVチューナーのついた20周年記念Macintoshが発売される。
1998年
ジョブズは多くのプロジェクトを中止させ、コンピュータだけに焦点をしぼる。
Eve Jobsが産まれる。
最初のiMacが誕生する。
1999年
Pirates of Silicon Valleyが放映される。
ノア・ワイリーがジョブズを、アンソニー・マイケル・ホールがゲイツを演じている。映画のオープニングシーンはスーパーボウルのCM枠で放送されたCM「1984」のセット。
2000年
ジョブズが正式にAppleCEOに就任。
PowerMac Cubeが発売される。
ジョブズは1984年に購入したJackling Houseに手をいれるのをやめて放置。
2001年
Apple初の直営店がヴァージニア州 マクレーンにオープン。
iPodが発売される。
OS X 10.0が発売される。
2003年
フルアルミボディのPower Mac G5が発売される。
アル・ゴアがAppleのボードメンバーに加わる。
ジョブスの膵臓に悪性の腫瘍があることが判明。治療可能な膵臓癌という稀な種であったため、ジョブズは9ヶ月間様々な薬物投与の治療を試すも、その結果は残念ながら芳しくなかった。
2004年
7月、ジョブズは腫瘍摘出手術をうけ、療養のため1ヶ月の休暇にはいる。
この時、ジョブズはPowerBook(17インチ)を使い、病室からApple社員にメッセージを送っている。
「みんなに知らせなければならない個人的な話がある、そしてこれは自分から直接みんなの耳にいれたいと思う。この週末、私は膵臓から癌性腫瘍を摘出する手術を受けた。」
ジョブズはJackling Houseを取り壊してその土地に新しく家を建てる許可を得るも、地元の歴史的建造物の保護を訴える団体がこの決定に対して差し止めを要求する。
2005年
x86インテルのハードウェアでOS Xを起動させるためのプロジェクト「スタートレック」が実を結び、AppleはMac内部にインテルを使用することを発表。よって、Windowsと Macは部品という面から見ると本質的には同じものになる。ソフトウェアとデザイン性のみが両者の相違点となる。
ジョブズのデザインへの注目(早い時期からそうであった)とNeXTで学んだハードよりソフトを重視するということが、今後のApple牽引に大きく役立っていくことになる。
Macの父とも言える、ジェフ・ラスキンが膵臓癌のため、地元カリフォルニアのPacificaで息をひきとる。
ジョブズ、50歳になる。
iPod Nano、Video iPod、iPod Shuffleが発売される。
ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で式辞をのべる。
この式辞は大きく3つのパートで成り立っており、1つは、教育について。大学は中退したもの、なぜ自身は大学進学を選びそして何を学んだか。1つは、Appleへの情熱とその愛するAppleを失った経験について。そして最後の1つは、自身の癌体験と死について。
この動画や文章はオンラインで広く出回っている。ジョブズの第2Apple時代で、最もプライベートが垣間見えるものである。
2007年
iPhoneが1月に発表され、6月に発売される。
Apple TVが発売される。
2008年
Macbook Airが発売される。
ジョブズの痩せ過ぎを理由に健康面での噂が多く出回るようになる。
Psystarが400ドルのハッキントッシュを発表する。
ジョブズはKeynoteプレゼンテーションを(ジョブズ1人だけでなく)他のApple役員と共に行うようになる。
余談だが、この頃に米Gizmodoはジョブズは体調が悪く翌年春には一線から退くのではないかと噂していた。多くの大手メディア(特にCNBCの局長Jim Goldmanとウォーストリート・ジャーナルの記者)はこれを2009年の1月まで否定し続ける。
2009年
ジョブズは療養のため1月から6月まで休暇をとることに。
この間、ジョブズがCEOのまま、ティム・クックが暫定業務を行うことになる。
ジョブズはJackling house建て壊しの許可を得て、サイズダウンした家を同敷地内に建てる。
ジョブズ、テネシー州で肝臓移植手術を受ける。
これに対して、ニューヨーク・タイムズ誌は、なぜジョブズはそんなに早く肝臓移植を受けることができたのか? と疑問を投げる。その問いに、病院側はジョブスの許可を得たうえで、ジョブズがレシピエントの中で最も病状がひどかったからだと回答している。
6月ジョブズはAppleに復帰する。その際のプレスリリースにはジョブズ自身のコメント入り。
本社で姿が見られる。
2010年
ジョブズによるkeynoteのプレゼンテーションでこの年は幕をあけ、iPadが発表される。
Googleのスローガン「Don't be evil」を「クソくらえ」と揶揄する。
会社同士がライバルとなっていく中で、元ギーク友達のエリック・シュミットと敵対するようになる。その後2人がミーティングをしている姿が見られるが、やはり張りつめた空気が感じられる。
6月にiPhone 4を発表。
iPhone 4のデザインの欠点により、持ち方によって電波受信感度が悪くなるとう問題が発生。ジョブズはこれに対するユーザーからのメールに「そんな風に持つのを避ければいいだけだ。」と返信。
その後、iPhone 4のアンテナ問題に関するイベントを開きiPhone 4を擁護するも、ユーザーへの無料バンパー配布を発表。さらに、米ウォール・ストリート・ジャーナルのアンテナの開発にミスがあったとする記事に対して 「クソくらえ」とコメントし、ニューヨーク・タイムズにたいしては「でっちあげだ」と訴える。この時に自身の健康状態に触れ良好だとコメントする。
Magic Trackpadが発売される。
ジョブズによるkeynoteプレゼンテーションで、Apple TV、iPod nano、iPod Touch、iPod Shuffleの新モデルが発表される。
22歳ジャーナリズム先攻の学生とメールのやりとりで「我々のゴールには、君が良い成績を取るための手伝いをすることは含まれていない。」と返信、最終的には「頼むから放っておいてくれ。」とコメント。
iPadの売り上げが初めてMacを超える。
ジョブズによって、OS X Lion、iLife' 11、MacBook Air新モデル(2種)が発表される。
Financial Timesがジョブズを今年の顔(Person of the Year)に選び、「アメリカでは人生に2幕目はない」というF・スコット・フィッツジェラルドのアフォリズムを完璧に反証したと評する。
2011年
米Verizon社からもiPhone 4が登場。この発表会にジョブズ氏は不参加。
ジョブズからApple社員に、再び病気療養休暇にはいるという内容のメールが届く。ジョブズはCEOのまま重要な戦略決定等には関わり、ティム・クックが暫定業務を行うことになる。またこの療養休暇が肝臓移植や膵臓癌に関連したものかどうかは不明。
Apple社員に宛てたメールの中でジョブズが「私はAppleをとても愛している、できるだけ早く復帰したい。」とAppleへの想いを語っている。
先日病気療養休暇にはいると発表したばかりのジョブズ氏。今年で56歳なのですね。ゆっくり休んで1日でも早く復帰で きることをギズモード一同願っております。「アメリカでは人生に2幕目はない」を反証したジョブズ氏。米Gizmodo Brian記者作のこのタイムラインがさらに長くなり、3幕も4幕も、これからもずっと我々を驚かせて楽しませてくれるといいですね。
興味深い文に感激。ストーリーは誰にもあり、誰にも道はある。御供
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ジョブス氏がオックスフォードの卒業生に送った言葉を読んで勇気づけられたことがあります。彼の偉大さは逆境に負けずに好きなことを諦めないこと、希望を捨てないことのように思います。
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