料理をふるまって、
飲み物を持ち込んで集う。
そして、指輪やらネックレスを品定めして売る会の集い。
個人的な情報から呼び寄せられる。
あてもなく時間もなく集まってくるさみしがりや。
さみしがりやが孤独なわけじゃないけれど、
年を老うごとに大都会という人間の森はさびしさを増す。
それは確かなことだ。
この大都会をあてもなく歩いている。
楽しみを求めて歩いている。
人間のぬくもりを探して歩いている。
コンピュータで至福になるのはホンの一時。
泣いたり、笑ったり、会話をしたりして、
ホットする時間を手に入れる。
大切な時間を手に入れる。
それは仕事かもしれないし、
心の中にある「美」だったりするわけだ。
人間の密集している大都会で、
会ったり話たりするのは限られた少ない人間だ。
たくさんの人間の中で、
人生の中でとても少ないだろう。
だって、地球にはこんなにもたくさんの人間が住んでいる。
ある者は家もなく。
ある者は公園を住処に。
ある者は今、車の中。
もしくは列車や飛行機。
またある者は暖かい家族というものに囲まれて、
週末は美しい妻と子供。
郊外の白い垣根の家でドライマティーニを飲んでいる。
街の中の商店の二階では仲むつまじく、
TVを観ている者もいるだろう。
飛行機の小さな窓から下界を見下ろせば、
それぞれの場所にいろいろな光がある。
赤く輝き人間の性を癒すところ。
ほのかなろうそくの光で瞑想にふけるところ。
蛍光灯の人工的な光の中で勉強している光。
暖め合ったり、
ののしり合ったりしている家々。
たくさんの光の中にたくさんの人生がある。
誰もが願ってそこにいるわけじゃない。
自分が選んでそこに居る人だっているんじゃないかな。
私はこうしてペンを走らせて、
わけのわからぬ散文を書いている。
集いをそうそうと引き上げるとしよう。
「人間の出会いは、実に不可思議なものである」
ある出会いを通して世の中が急に広がったり、
人生が思わぬ方向に動いたりする。
いわば「出会いの連鎖」を誘発していく。
喜びも悲しみも、
そして目前に広がる有様も。
人生のすべては物質であり、
脳の中にある現象でしかすぎないのか。
それでは寂し過ぎる。
もったいない。
私の脳の中は違うものをとらえてやまない。
世界をより深く感じたりする。
物質文化の社会で大量生産された醜いものに、
それにさえも愛情を感じるのだ。
あまのじゃくな私の目で見て欲することを行う。
だって、私はなんにつけても自分の意見を持っている。
さみしがりやではあるが群れたりはしない。
スーツを着て白い車に乗って、
ブランド品など身につけない。
たくさんのものを観て来た私の目は、
あるモノを、そして人間を一瞬で好きになったりする。
受け付けなかったりもする。
そのワガママは仕方ない、
それが私なのだから。
私は社交的のわりには人みしりをする。
エネルギーを磁場のように感じ取るアンテナがある。
人が集まるところにいて的確な言葉をパッと返して、
不思議なチャネラーを感じる。
集うところで、
同時に7人の話を聞いている。
笑いを与えてあげたり、
ひとつひとつに答えたりする。
そんなことをよく考えるよ。
でも、本音を言うとしゃべらないでいることだと解ってる。
世の中に対して「あかんべぇ」と言っているヤツの中にいる。
その方が居ごこちがいいかな。
今はもっとも世の中が頼りない時代だからね。
有名だろうが、無名だろうがかまやしない。
自分の道の上をゆっくりと歩きつづける。
ヒップだと言ってゆるされる雰意気でいたいんだ。
人たちが狭い地球に住んでいても、
すれ違わないのが大都会さ。
東京もいいけれど、
3ヶ月以上いると一回くらいはどこかに出て行きたくなるよ。
ひとりでふらりと旅に出たいな。
知らない街に行って、
満月の夜をさまやいあるくのもいいね。
今は代官山の集いに行こう。
御供