きっちりと眠りから目覚めた。
幾日寝ていたのかわからないほどよく寝ていた。
人間というものはこんなに良くねむれるのかなと思うくらい、
良く寝た。
何か変わったかというと何もかわっちゃいない。
NYに行っているはずなのに東京にいた。
何も変わってはいなかった。
いつも寝ていてもいいのかな、
と思う程変わってはいない。
3〜4日は経っているだろう。
横になったコップも吸いかけの煙草もテレビのチャンネルも、
何も変わってはいなかった。
携帯に19軒の電話が入っていた。
が、こちらからかけるでもなく。
ゴメンなさいと小さくつぶやいたけど、
何も変わってはいなかった。
何も変わってはいなかったことに気づく。
今、私はどこをどういう風に生きているんだろう。
2001年6月を生きているんだと、
カレンダーをみて解った。
カレンダーがあやふやだったらぜんぜん違うところを、
違う日時を生きていてもおかしくない。
固定観念の中では私はひとりだが、
もしかしたら、複数の私がいてもおかしくない状況だ。
大都会というものは時として人間を迷路に誘い込む。
隣人に知り合いがいるわけではないし、
同じマンションに顔を見しりもいないのだ。
一枚の薄っぺらな壁をはさんで全く知らない同士が毎日生活しているのだ。
何かのアクシデントやタイミングが無い限り、
一年でも二年でも同じマンションに住む隣人に会うことはないのだ。
同じ街にしたってそうだ。
よほどあいそがなければ、この街に話をする人などいない。
たまたま私はお寿司やのおばさんと、
たいやきやの人たちと顔見知りになった。
それと本屋と文房具やの人だ。
毎日行くスーパーのレジの人の顔もまだ解らずじまいだ。
人間覚えようという意志がなかったら、
覚えなえないものだとつくづく思う。
私がこんなだからかな。
この大都会の片隅に住んでいることなど、
もしかしたらそら言かもしれない。
インプットしたコンピューターがからまわりして、
私の存在そのものが消えてしまうかもしれない。
私という人間がここにいなくても変わらない、
と考えるとどきどきしてくる。
唯一の救いは肉親がいて、
愛する彼女がいて友がいることだ。
だって会話をする相手は近くにいる彼女以外にいない。
携帯で離す相手は仕事がらみの人間か友人。
そして海外にいる友くらい。
テレビや本は一方通行が続いている。
編集という仕事で私がやった雑誌が本屋に並んだとしても、
本当に私がやったか追求する人間もいない。
もし私の代わりがやったとしてもそれはそれで通ってしまう。
私という人間が、この都会の真ん中に住んでいる事実。
ここにいてあれこれと悩み、苦しみ、笑う。
真実と自由を求めて生きていることは誰にもわからない。
でも私は必至で頑張り、
自分であり続けるために一生懸命生きている。
御供 2001/6/27
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