力でねじふせてやれ
金和弘というちょっと変わった友達がいた。彼と初めて出会ったのは確か、僕が中学3年生の夏祭りの夜だったと思う。朝鮮学校に通っていた僕らは先輩たちの教えを守るべく、日々喧嘩に明けくれる毎日だった。その教えとは、俺たちの親や祖父母は日本人にさんざにじめられ続けたんだから、ちょっとでも差別的なことを言った日本人は力でねじふせてやれ、というものだった。今から考えると恥ずかしい事だが、当時はみんな真剣だった。
その夏祭りの夜、顔を腫らした日本人の不良グループとすれちがった。僕らとは違う朝鮮学生にどうやら殴られたらしい。その中に金和弘がいた。
僕と一緒にいた血気盛んな友人が、またそのグループにちょっかいかけようとした。その時、金和弘がおどおどした様子で前にでてきた。
「僕も朝鮮人なんだ。日本の学校に行ってるけど。だから暴力はよしてくれ」
次に金和弘にあったのは広島朝鮮高等学校の入学式だった。彼はこれまで民族教育をうけてこなかったので、編入班に入れられ朝鮮語を一から学ぶことになった。彼と僕はクラスは違ったが、寮の部屋が一緒だった。当時、朝鮮学校では同級生の団結は固かった。寮で部屋が一緒だと、それにも増して強い絆で結ばれる。金和弘と僕もそうだった。
寮生活にもそろそろ馴れてきたある日、金和弘は突然寮から消えた。あともう少しで夏休み、という時期だった。寮の舎監に聞いたら家の事情で実家に帰ったという。どうして突然帰ったのかすぐにも理由を聞きたかったが、休みになれば僕も家に戻れる。その時改めて本人から聞けばいいと思った。
3日後、彼から電話があった。
「俺、学校辞める。しばらくの間いなくなるが、心配しないでくれ。また会おう」
理由も聞く前に金和弘は電話を切った。それから丸2年、彼は行方をくらました。
高校3年のゴールデンウィークの前に父から寮に連絡が入った。ちょっと様があるので休暇には家に帰ってこいとのことだった。その頃僕は胃をこわしていて、病院に行くいいチャンスだと思った。
歴史の中にいる父
僕の父は韓国慶尚南道の生まれで、17歳の時、日本にやってきた。今から50年以上も前の話だ。折しもその年1939年は、日本人による朝鮮人の強制連行が始まった年でもある。別名、朝鮮人狩りというこの強制連行によって、多くの朝鮮人が、鉱山、炭坑等で命を落とした。なかには日本軍兵士として前線で玉砕されたものもいた。女性は従軍慰安婦として戦地に送られ、日本軍兵士の性欲処理にあてがわれた。
この強制連行とは別に、1910年の日韓併合による土地調査作業などで、朝鮮の農民のほとんどは土地を失ってしまった。それでも自分の土地だったものを今度は小作人として日本人地主から土地を借りて農業をしなければならない。当時、日本人ひとりが朝鮮に移民してくると、5家族の朝鮮農民が流民となって土地を離れたという。食い詰めた農民は故郷を捨て、日本や満州などに出稼ぎに行くしかなす術はなかった。
僕の父も出稼ぎ組だった。父は山口県の防府、大阪などを転々とし、1945年の終戦を岡山県の倉敷で迎える。
終戦後、朝鮮人は解放された。強制的に日本に連れてこられたもののほとんどはすぐに帰国した。その子孫が2世や3世の僕たちだ。
解放直後の1946年10月、朝鮮人たちは自分たちの人権を保護するための目的で在日朝鮮居留民団を組織した。これが現在の民団(在日本大韓民国居留民団)の前身である。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、3年後に停戦。その後、1955年に総連(在日朝鮮人総連合会)が設立された。総連は北朝鮮の在日同胞組織で、設立後ぐんぐん勢力を拡大し、民団系在日同胞も数多く組織に取り込んでいった。
朝鮮戦争後、思想に関係なくどさくさに紛れて僕の父も総連に加盟した。自分の家族を保護してくれるならイデオロギーは二の次だ。そのため本籍は北朝鮮になった。
父はその後、総連のために精力的に活動した。本業よりも総連の仕事を重視した。朝鮮学校の建設の時には設立委員長も努めた。僕が中学校の時、父は商工会の会長になった。本業の方も母に任せすべてが順調だった。しかし、その時、韓国から悲報が届いた。祖父が亡くなったのである。
すぐにでも駆け付けたい気持ちは山々だが、それを国籍が邪魔した。北朝鮮籍では韓国はおろか国外に出られないのだ.
方法はひとつだけある。籍を韓国籍に変えればいいのだ。でも父はこれを諦めた。籍を韓国にすれば民団に加入しなければならない。民団と総連は同民族なのにお互いに敵対心を持っている。父が南に籍を変えれば、総連の友人は裏切り者のレッテルを貼るだろう。これまでに築き上げてきたものがすべて水泡に帰してしまう。
しかし我慢にもやがて限界が訪れた。ゴールデンウィークに家に戻ると父は、韓国にいるお前の祖母ももう長くない、私はもう40年近くも母に会ってない、死ぬ前に一度でいいから会いたいと言った。
国籍を南に変えるには家族の籍も同時に変えないといけないのだそうだ。祖父の時の経緯を知ってる僕にとって、それを反対する理由はどこにもなかった。それに国籍が南に変わったところで失う物なんて何もない。逆に日本でこれから一生暮らしていくには国交のある韓国籍の方が何かと都合がいいくらいだ。
手続きは皆、父がやってくれた。
父は悩みに悩み抜いた結果、この結論を出したのだと思う。しかし1980年、父が41年ぶりに祖国の地を踏んで帰ってきた時、非難を浴びせる者は誰ひとりとしていなかった。父の友人の総連関係者も皆、同じような人生を歩んでいるのである。偶然にもこの時期を境にして、籍を南に変える人がどっと増えた。
哀史に終止符を
あくる日、僕は病院に行った。バリウムを初めて飲んだ。十二指腸潰瘍だった。僕は夏休みの直前に退院し、そのまま寮へは戻らず、バーでアルバイトした。
夏休みになり広島の同級生が戻ってきてパーティーが毎日のように繰りひろげられた。戻ってきたのは広島の同級生だけではなかった。金和弘も戻ってきたのだ。驚いた僕の顔を見て、金和弘は、「心配かけてごめん。神戸の親戚のところへ行ってたんだ。ずっと絵を描いてた」
とはにかみながら笑った。
「おまえ、「愛と悲しみのボレロ」見た?感動したよ、あれ、いい映画だ」
と、映画の話をひとしきり済ませると帰っていった。
それ以来、金和弘とは会っていない。
去年の9月に広島へ戻った時、誰かから金和弘は北朝鮮に帰国したという噂を聞いた。そんなことあるわけがない。彼は朝鮮学校では極めてまれな韓国籍だったんだ。北に帰った?ふざけるのもいい加減にしろ、むしろ北の体制を批判するような奴だったんだ。
翌日、僕は金和弘の家に電話をかけた。金の母は面倒臭そうにそれを肯定して、すぐに電話を切った。何が何だかわからなかった。
後で聞いた話では、彼は家庭内の問題児で、継母とうまくいっていなかったらしい。学校を辞めて家に帰った時、継母はすぐに和弘を神戸の親戚に預けた。そこでもいざこざを起こした彼は遂に国籍を変えて北朝鮮に送られることになった。
同じ日本で生まれ、同じが学校の同じ寮で暮らしたのに、彼は北朝鮮の国民となり僕は韓国の国民となった。両国は「停戦状態」にあるため、彼に会うにはどちらかが亡命するしかない。
現在彼の消息は不明である。出来ることならもう一度彼に会いたい。
誰かが言っていたが、朝鮮民族の近代史を文学的に表現すれば「家族の別離と再会の哀史」ということになるらしい。
このくだらない哀史に終止符を打つためにも朝鮮半島の統一を一日も早く望む。
祭くん
1 件のコメント:
僕の父も韓国慶尚南道の生まれです。僕も16歳で帰化して日本国籍に変えました。あれからもう36年も経ったのですね。朝鮮語も知らないで日本人学校へ通っていた僕たち2世にとって国籍ってなんでしょうね。この記事を読みながら亡くなった父のことやいろいろな思い出が駆け巡ってまぶたが熱くなりました。じっくり考え続けてみます。
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