すぐれた詩人は予言者である。
彼は透徹した目と論理を越える感覚によって、
社会全体の流れを読みとり、
社会が求めている未来像を先んじて描き、
これを今だ自覚なき人々に示す。
彼の言葉がそのまま受け入れられることもないではないが、
たいていの場合、待っているのは無視と冷笑である。
それでも詩人は、
詩人であることから逃げることはできない。
彼はいやおうなく言葉を発するのだ。
ケルアックはひとつの体系的な持ち主ではない。
体系化が可能になるのはもっと先の話しだ。
彼はなかばインスピレーションによって、
10年先、20年先のアメリカが必要とする核を、
ひとつまたひとつと見つけていった。
そういう思索のための詩は最もすぐれた道具である。
詩は最も個人的であり、
未整理のものをそのまま記述する術にたけている。
小説に仕上げようとすると曖昧なものの多くを切り捨てなくてはならないが、
詩はすべての思想をその萌芽のままに言葉に定着することができる。
それを用いてひとつのヴィジョンを求めることを、
ある意味では詩人は社会から要請されている。
そこにあきらかに要請があるにもかかわらず、
時として社会に詩人が提出したレポートを拒否する。
真の詩人はいつでも早すぎるのだ。
詩人という存在が、
うっすらと悲劇の色を帯びる理由がここにある。
考えてみれば、
1950年代のアメリカで禅、
ブッディズムの用語をちりばめた詩が、
一般の人々に広く受け入れられるはずはなかった。
ただ普遍なる精神に目覚めよ。
すべてを受け入れよ。
すべてを見よ。
それらはからっぽ。
そう受け入れよ。
真実を!
御供

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