2010/08/05

バスキア


もともとグラフティのぺインターではじまり、
27歳で死んでいったバスキア。
そのあまりにも短い生涯は強いインパクトをアメリカのアート界に与えた。
バスキアは30以上ものアート・ディューラーとプロモーターたちの食いものにされた。
その中にアンディ・ウォフォールもいた。
バスキアは80年代起こったシュールで歪んだアートと、
金の関係を象徴した。
80年代はいったい何だったのだろう。
欲をかりたてるレーガン大統領の金融政策、
日本の馬鹿げたバブル経済。
ニューヨークではニュー・ジェネレーションといってくさるほどリッチな20代の株取引商人たちに、
[ヤッピー]という軽蔑的な名が名づけられた。
あまりにも多くの金が80年代アート界に流れ込んだため、
もはや絵画につけられた値段とその芸術的、
歴史的価値との関係は意味のないものになってしまった。
芸術評論家のロバート・ヒューズは1994年にマーク・ロスコの絵画に、
1.5憶円という記録的コレクターについて書いている。
既にひどい損傷のあったその作品は本人以外の手により何度も塗り替えられている。
当時まともなロスコの作品の市場価格は4千万円ぐらいだったのに、
その日本人コレクターはおかまいなしだった。
バブルに価格がつり上げられたのだ。
無知以外何ものでもない。
悲しいことにアートの世界ではそのとき、
それが変だと誰も気づかなかった。
こうして1980年代アート市場は機能し、
一夜にしてマーク・ロスコの絵は2倍跳ね上がったのだ。
これがバスキアのいた世界だ。
白人中心のバブル・アート市場で彼が黒人であったことは非常に不幸だった。
「洗練されてない純粋な黒人」を目先の変わった新しい商品のように扱い。人々は彼を欲望の餌にした。
そして絵を描く勉強をしながら、
もっと芸術的な幅を広げていく。
可能性を秘めていたバスキアは即効で得た名声にしがみついてしまった。
1990年代において名声とは本能に等しかった。
バスキア名声は、
彼に終わりのない繰り返しのサイクルを強要した。
無知なコレクターが彼に同じものをずっと要求したからだ。
バスキア自身もドラッグというものに閉じ込められていた。
彼の最初のアート・ディュラーは自分のギャラリーの地下を使わせて、
まだ絵画乾かないか、
完成しないうちに作品を売ることもしばしばあったという。
最終的にジャン・ミッシェル・バスキアが残したものはほんの一握りの良質の作品と山のようなあまり価値のない作品。
そして遠い記憶にあるあのブクブクしたあれ以外何もなかった。
純粋で無垢なものを商業的に価値のないものにしたくない。
その良を追求して、あくまでも地球をキープするひとつの手段としたいものだ。
2002/3/17

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