2010/08/26

幸福論


美を解する器官を持っている人間は、
それを楽しむ能力を持っている人間。
人間が生活や苦難や危険の中に、
美を愛することが出来る限り幸せだ。
つまり、自然や絵画の中の色彩の戯れが幸福だ。
嵐や海の中の声の呼びかけや、
音楽などを楽しむ。
犬の感動的な眼差しから、
詩人の悲劇的にいたるまで。
たえず、流れるその言葉から聞く者に、
その喜び、知恵、冗談と感動をあたえること。
美の中に意味を持つこと。
意味こそ多様なものの統一である。
美を持たずに生きることは、しおれすさむ。
パンやワインのない生活はない。
笑いや音楽のないような生活は幸福じゃない。
幸福と言う言葉は、
自然の感覚的な面に向かっては変化したりしない。
この言葉はいつもと変わらず、
今日も黄金色に輝いている。
幸福という時感じた。
賢い人とそうでない人がいるように、
幸福でない人とそうでない人がいたと思えた。
それにつけても、
私たち自身、異常な「幸福論」の時代の中に暮らしている。
幸福を味わったと言う。
ねたましさを持ってたたえられた幸運児や、
太陽の愛児や、
世界の支配者も。
わずかに時々、
はなやかな恵まれた時間。
大きな光に包まれたにせよ。
彼らは他の幸福は体験しえず、
完全な現在の中で呼吸すること。
天体の合唱の中で歌うこと。
世界の輪舞の中で共に踊ること。
神の永遠の笑いの中で、共に笑うこと。
多くの人はそれをただ一度だけ、
あるいは数日だけ。
幸福を体験するためには、
何よりも時間に左右されないこと。
同時に、恐怖や希望に支配されないことが大切だ。
数日、数時間、あるいはほんの数分間の体験でも、
幸福はやって来る。
人との初回に体験した、
これらのことは幸福として呼び起こされる。
一生の間で、
ある一時、
幸福を味わった。
世界の秩序では、
この幸福は永遠のものになる。
御供

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