2010/05/21

ケルアックの詩



ケルアックは詩をブルースにしているのは、
感覚で受けたものをそのまま詩の言葉にするからだ。
「路上」が出るまでの1957年まで、
ケルアックが不遇だったことはよく知られている。
「詩人になりたいものだ。でなきゃ死んだ方がましさ」
と、彼は言い切った。
彼の詩は仲間うちでは高く評価されていた。
ケルアックの詩はブルースのように巨大な文字を構成する。
ちがうところは、
プルーストのように病床で人生を振りかえりながら書かれたものではない。
人生を走り抜けながら書かれたものだ。
ケルアックは言った。
「ああ、詩はだめだ。僕が書けるのは散文だけ。正直に言うがこれは散文、詩ではない。でも、僕は僕に誠実にありたい」
しかし、友人アレン・ギンズバーグはケルアックの詩を認め、
熟列に指示していた。
「ケルアックは詩人。誰もがみずから詩人として名乗り、短いちっぽけな詩を書く。私も詩人で行数の多い、たっぷりの長い詩を書いている。私の長いものが詩であるなら、間違いなくケルアックのものも詩なのである」
ケルアックは合衆国20世紀後半における新しいタイプの大詩人だ。
とりわけ、アレン・ギンズバーグはケルアックとボブ・ディランには詩的な影響を与え続けた。
ランボーが世界中の若者の伝説となったように、
ケルアックは民衆詩人と学術詩人と別なく詩人の中の詩人だった。
ケルアックの詩はブルースを唄うように読まれ、自伝的要素を持っている。
ケルアックは逆立ちをするように世界をひっくり返して見ることを考えていたに違いない。
世界をひっくり返すこととは、
世界を気にしていなかったことと同意なものである。
まわりなんか気にしていなかった。
気ままにやっていたわけだ。
ケルアック的詩人はスケッチで映写をはじめ、
イメージを内証する。
ついには愛と救済に自己を解放する。
この道の苦悶の記録が彼の詩の本質である。
ケルアックが没頭する詩は、
かならず、自伝、旅、音楽、宗教、セックス、ドラッグ。
無作為ということだ。
詩のスタイルはジャズ。
方法はスピードとスケッチという言葉遊び。
これがケルアック的というわけだ。
ケルアックは無作為的なもの、
宇宙の音そのものがプロットとなる。
造語。
知的な連想。
語呂合わせ。
いろいろな言語や非言語から採った言葉の混ぜ合わせ。
スピードあふれた直感的な書きなぐりによるものである。
そして、ケルアックは音に引かれて詩を書きなぐった。
それも意味不明の音しかない。
ケルアックは言う。
「僕のメッセージは戯言だ」
これこそ、ケルアックが求めた詩の世界である。
言葉はもともと音であることを思い出させてくれたのもケルアックだ。
しかも、言葉の記号も歌に戻すことでそれらの深層の意味を探ることに没頭した。
チャーリー・パーカーがジャズでやったことをケルアックは言葉で感覚的に音楽に等しい詩をつくり出そうとしたに違いない。
ゲイリー・スナイダーがケルアックに言う。
「エネルギーに満ちた原始時代には、言葉はまさに『種子の音』詩は音のエネルギーのレベルまで達する。基本的に音と歌の宇宙から成り立つと考えることが詩学のはじまりである。サンクリットの詩学では詩のはじまりは流れる水と木々にわたる『風の音だ』という」
ケルアックのブルースはある法則によって宇宙空間を飛び回る。
小惑星のように泡立ち、
つぶやき、
吠え、
衝突し合いながら飛び込んでくるものを吸収する。
沸騰する音の川となって流れる。
その流れはどこに向かっているかというと、
いうまでもなく仏教的帰結。
静寂、沈黙。
すなわち無だ。
ケルアックの詩の騒々しさは後でやって来る静寂を一層際立て、
大きな沈黙の石を読者の胸にすとんと落とす。
ケルアックの追求した音は『無の音』だったのだろう。
私の心に音が生まれる。
それは歌になる、
最初の音だ。
心をからっぽにし、
レジスターをたたく。
私が歌うとき私は祈ろう、すべての生ある人間のために。
さらにここかしこに存在する生あるもののために。
今、名前などいらぬ。
顔さえいらぬ。
憾みひとつ、
ミルク一杯。
愛のひかりひとつ救済を!
ケルアックの詩を読む時、
音を楽しみつつ、意味にあまり深入りせずに読む。
スピーディに読むべきなのだ。
感性を全開にして、
音からくるものを感じとるということが必要なのだ。
  御供 2000/7/11 11/12/7
大好きなケルアックへのオマージュ!

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