2010/04/05

東京のナイトクラブのはじまり


   

なんといっても東京のクラブのはしりといったら、『ビブロス』、『ムゲン』という赤坂にあったクラブだ。そして六本木に出現した『ジュニア』、『メビウス』、『アイ』というクラブだ。私が遊びはじめた30年余り前のことである。次に新宿に『椿ハウス』ができたのだが、大貫憲章のロンドンナイトで知られ、クラブの革命といってもいいこのクラブは数々の伝説をつくりあげた。ライブやフッションショウなどのイベントを取り入れ、クラブカルチャーを生んだのもこのクラブであろう。なにしろこの『椿ハウス』は食べ放題、飲み放題というシステムを仕組み、文化服装学園の学生や美容師の卵であるフッションピープルを巻き込み時代を変え、時代を創ったと言えるだろう。
 その当時、クラブは若者のたちをつなぎ仲間にさせた。友だちをつくる場所としてもおおいに活躍したといっても過言ではないだろう。私もそのひとりだがクラブはそこに集う人間の人生をも変えてしまうほどの影響力を持っていたといっても言い過ぎではない。一番感化され易い年齢の若者たちは毎晩のようにクラブにたむろし、まるでそこに住んでいるかのように時間をすごし、青春のおおくの記憶をもらい、飲みあそび、おおくの人生の勉強をしたに違いない。クラブは学校よりも楽しく面白く、そして輝いていた。気持ちいいことすべてがあった。
 あたらしく格好いいフッション、素晴らしい音楽、はじめてのドラッグにセックス。
 毎日が楽しくてしかたなかったというこのクラブでの出会いが、たくさんの情報を提供してくれた。田舎から出て来た若者たちはみるみるうちに洗練され、成長していった。そんなふうにクラブは人生の学校のような場所であり、人間形成の場所でもありえた。
 六本木に『玉椿』ができ、だんだんと西麻布に移り『トミーズハウス』が、『ピカソ』が。そんな西麻布に『ツールスバー』が、このクラブもおおくの規制概念を打ち破りクラブのあり方に大きく時代をつくった。とりあえずレコード好きな仲間に音をかけてもらい。人と人を繋ぎ合わせた。DJというブームをつくり、1500円1ドリンクで出入り自由。ブラックライト40本を常設して、60年代の海底をイメージしてサイケデリックなペイント。パフォーマンスをやりカフェバー全盛時代に新しい形で人間と人間を絡ませひとつのクラブの時代を作り上げた。実はこのクラブは私が20年前にやっていたというという事実。期に音をかけるクラブはあったわけだから、あまのじゃくな私はパフォーマンスクラブをやりたかった。どんなものかというとロンドンから来た女のコが帰る旅費がないからストリップをやるわとか、あんこナイトは私の好きなあんこを配るだけなのだが、その楽屋落ちが楽しくて仕方なかった。また入り口に小さな覗き穴をつくって、合い言葉のようなものを言わせ知り合いしか入れないといったぐあい、私の知り合いしかいないのだから紹介してみんなが友だちになれる。そして中は治外法権なわけだ。想像してほしい。どんなに変で楽しいかを!
 次に『イエロー』ができ、青山に「ブルー」が、「ミックス」ができた。こうやってつぎつぎにクラブができては消え、できては消えていった。これもクラブの宿命でどんどんと移り変わっていくのだ。名前やエリアは時代とともにに変わっていくが、クラブはいつの時代も若者たちを刺激し、魅了し、繋ぎ合わせ。流行と文化を作り出していく。その本質はかわらない。
 ネクストはどこにどんなクラブができていくのだろうか?そして私はそこでも楽しく遊んでいることだろう。だって私は人間が好きで好きでたまらないのだから。
   H.MITOMO













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