それらの言葉はすべてひとつの完璧な言葉。
私が存在し書いたものすべてが私の言葉。
唯一にしてすべて。
あの完璧なひとつの言葉へ。
そしてそれが詩だ。
つまり詩は書かれるものであり、
詩は何か言うことを持つべきものなのだ。
高度の文化と低次元の文化があって、
詩は高度の文化に属するものという考えから創られがちだ。
しかし、書かれるべきして書かれた詩こそ高度だということだ。
文化も時代によって変わっていく。
言葉や詩だけでなく、
書くことそのものを世の中は強く要求しだしたのだ。
だから、私はこうして書いている。
この作り出された時間と共に書かれた、
嘘偽りのない言葉で書いている。
言葉を不安定に使い、
言葉は不安定なまま書かれつづける。
みんなが見る夢とは何なのか?
そして何だったのか?
望むものは何でもたっぷりあり、
現実なものになり、取り入れられもした。
誰もが自分で納得し選んだ「世界」で、
その「世界」の仲間たちと生きている。
その生き方、ユーモア、場所を共にしながら、
語り合い、行動している。
普段友と話すような言葉。
この自然な状態で発せられる言葉で書く、
ありふれたこと、馴染みのこと。
これらの言葉はしっかりと後世へと伝えてくれるのだ。
だから、今この時代に時間を見つけては書いている。
たとえ、これが詩と呼ばれなくても私は書きつづけるだろう。
何故か、書かなくては気がすまないからである。
書いていると楽しいからだ。
それはすべて、愛の詩である。
男から女へ、親から子へ、友から友へ。
すべての愛が、
ひとつのささやかな言葉の花びら。
言葉の弾丸になって宙を舞い、
風に乗ってどこかに吹いていこうとも。
私は私で私の言葉として書き留める。
この幸せの、
この手の上に乗るような幸せを手に入れるために書いている。
詩と散文のどちらでも、
その違いすらわからぬまま書いている。
私の書くという本質は同じであり寸分も違わない。
すべて出し尽くした素晴らしい言葉より、
わけのわからない今の言葉の方がいい。
だから、終わりの行に加えよう。
詩は科学じゃなく、理性とする成功でもない。
行分は詩でもいい。
散文というひとつの終わりのない詩でも、
表現したいものはひとつ。
それは繰り出す、このリズムが詩であり、
詩のリズムを決定するのだ。
言葉もリズムのように、
即興とインスピレーションで生まれる。
言葉のすべてが、陽気で軽快さにあふれる。
どうもちぐはぐな感がある時でも、
全体のリズムの流れが必ずある。
外を走る車の音、雨の音、
何もかもがひとつのリズムの要因になるのだ。
言葉はいつも、言葉を書く人間の感覚を表現している。
これは確かなことだ。
すべてが心ある音。
そうでなくては言葉はパワーを持たない。
心にある音の探求として言葉を使い、詩を書いているだけ。
詩という高度な芸術、
「いつも整頓されているベットのようなものだ」と、
誰かが言ってた。
あるがままの生活を明らかにし、
感じ、味見し、検証し、告白した言葉。
時代を伝える、真の詩であるべきなのだ。
誰もが詩人と言えば詩人であり、
つまり、書くことを書けば詩人である。
書くことだ。
詩人が詩人であるためには、書くことだ。
世に認められている作家は作家じゃない。
彼らは書けないのだ。
自分自身の言葉と体験を持たないのだ。
本をたくさん読み、知識の中だけで書くだけなのだ。
人々に、人々のために書く。
これが詩だろうか?
自分のために即座に喜びを感じながら、
書かれた詩、その言葉。
私の詩は、
誰もが経験しなかった、特殊な生き方を生きた言葉。
それをまとめあげる言葉の「世界」。
次から次へと言葉と戯れ、行動し、
言葉を追いかける。
言葉をスケッチするように書きまくる。
心から沸き上がる言葉をあるがままに、
私は私の言葉で書きつづけよう。
GO.GO.GO>>>>>>.
THIS IS MY POEM。
御供 2013/6/14

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